2013年8月24日土曜日

地理はこうして

勉強したい。

市況かぶ全力2階建てさん
「多様な地域性を内包するヒョーゴスラビア連邦共和国(首都コーベグラード)」

やや近く、馴染みもあるところなので、拝見してとっても面白かった。

それにしても、二十年、三十年前の世界と比べると、国が大きなまとまりから、分裂しているほうが多いかな。大義がなくなれば、団結している意味はなくなるもんね。

ところで、兵庫は高速道路を素通りしていくだけになってしまったが、サービスエリアで西宮名塩(にしのみやなじお)というところがある。古手のSAで、細長くて狭いし、いつも混んでいる印象しかないが、目的地までの渋滞を考えると、とりあえず寄っていこうかと大概は立ち寄る。

この「西宮名塩」が妙に格好良く聞こえるのは、昔の「太陽神戸銀行」と同じような感じだろうか。「太陽神戸三井」まではよかったが、「さくら銀行」で脱力。
我が家は全然関係ないけれど。



2013年8月19日月曜日

新聞を交換したい気持ち

グラスを磨くクロスを買ってみた。我が家には、ピカピカに磨き上げておかねばならないワイングラスなどはなくて、普段使いのタンブラーや小さなグラスが何個かあるのみ。それらと、新入りというか、一番最近買ったリキュールグラスと比べると、ちょっと曇ってきたような気がする。

早速、クロスで2,3個拭いてみるが、グラスを見ると反射的にいつも思い浮かんでくるのが、新聞の購読を止めたことである。
我が家には既にテレビがないが、新聞を取るのもやめた。去年の夏だったか、一昨年の夏だったか、いつだったか思い出せない。消費税増税が決まったら止める、とこのブログにも書いたこともあるから、去年だったかなあ。
取っていてもほとんど読んでいなかった。本当はもっと前から止めたかった。
でも、ゴミを包むには最適で、他にも防湿とか緩衝材代わりにとか、防災時に要るかもしれないと思って、なかなか決心がつかなかった。

取っていたのは産経新聞だった。その前に購読していた新聞社と比べると、かなりマシで、読むところが多少なりともあったけれど、まあ、ここもメディアのひとつなので、自分たちに都合の良いように書くのは変わらない。そして、どの新聞も購読者数が減っているので、産経も一緒にかどうかはしらないが、新聞を読みましょう、さもないと馬鹿になりますというキャンペーンを時折やっていた。


さて、取るのを止めて、ふと、一ヶ月分の購読料でグラスやお皿が買えたかもしれない、と思ったことがあった。一ヶ月にひとつずつにしても、今までの購読料で、何十個と買えたかもしれない。そのほうがよっぽど価値があった。そう考えると、本当に勿体ないことをしてきたと悔しくなった。


残念ながら現在、浮いた購読料で小さなお買い物をしたくても、生活費の一部になってしまっている。



薄べったいわたしの話

平和と聞くと、かえって怖い気がしてくる今日この頃。
平穏だったらまだ気持ちが落ち着くかも。

ところで、話題としては、1ヶ月前か、11ヶ月先でいいような、今ならもう既にそっとしておいてやれ、というようなシーズンオフかもしれないが、「ブラックブック」(2006年、ポール・バーホーヴェン監督)という映画の話。ジャンルは、戦争・サスペンス。
私は精神が脆弱で、肉体的に苦痛を伴うものは見るのも苦手で、コメディが一番好き。それで、この戦争ドラマもちょっと怖かったり、ドキドキするシーンは適当にやり過ごそうと思ったけれど、引き込まれてしまい、あっという間に見終わった。
とても面白かった。

ヒロインのラヘルことエリスがスパイとして潜入した職場で仲良くなった、口の大きい女友達ロニーが、戦前と戦後で立場を反転させているが、彼女はあっけらかんと「笑っていたら何だかこうなってしまったの」と言っていた。
笑う門には福来たる、である。

ドイツ側のムンツェ大尉はお得な役柄で、俳優の温和な顔つきがなおさらマッチし、エリスとこの人は幸せになって欲しいと思わせる。
重々しい大作、ではないところが、好印象の映画。ちなみに、エリスもロニーも胸が大きくて、女性のバストがよく目に入る映画だった。
私は体も薄べったいが、話も薄べったい。

最後に。
平穏って、運動とか「の力」とか学とかそういう言葉が付かなくて、研究もされないし、有り難い状態だなあ。






オランダの女優
カリス・ファン・ハウテン


 




2013年8月13日火曜日

涼しくなるかな

あまり野球には関心がないのだが、夏の甲子園と聞くと、一種のブラックではないかと思う。こんなに暑いのに気の毒だ。まあ、ほとんど見たことがない。春も同じ。

さて、暑いから、雪がいっぱい出てくる映画を思い出した。





「冬の嵐」
Dead of Winter(1987)




私はメアリー・スティーンバージェン(昔はスティーンバーゲンと表記されていた)が好きで、この映画ではヒロインのケイティを演じている。いろいろと忙しい役だ。
何でも屋の執事マレーを、ロディー・マクドウォールが演じていて可笑しい。夜、寝る前にケイティにミルクを持ってきていたシーンが印象的だった。上の動画では0:22辺りじゃないかな。ほんのちょっとだけ。
ロディー・マクドウォール氏は猿の惑星のコーネリアス博士役だそうだ。

ところで、メアリー・スティーンバージェンは「噂のモーガン夫妻」(2009年)という映画で、薪割りをしていた。格好良かった。この映画は、主人公夫妻がワイオミングの誰も知らない田舎に連れて行かれるのだが、そこのロデオやら何やらのイベントでローラだったか、カントリー歌手を目指す女の子が歌うシーンがある。上手。そのイベントと曲がマッチしていて楽しい。

でも、聞いたことがあるけど曲名が思い出せない。超有名、ほら、あのカントリーソングと悶々としながら検索してみたら、クイーンの「Crazy Little Thing Called Loveだった。わかってほっとした、ありがとう。



2013年8月11日日曜日

丸い日、曲がる、回る


暑い。暑さの正念場のような日が続く。

新しいメガネが出来たので、取りに行く。
わたしには高価だが、思い切って奮発した。
文字通り奮発。なので、元気が出るような気がする。


掛けていて楽しいカラーにした。

わたしの代わりにフランク君に掛けてもらおう。





眼鏡屋さんはr.さん。オーナーは同じ方なのに、前は店名がglasses-r.さんだった。
前の長い店名の方がいいような気がする。眼鏡屋さんってすぐ分かるし。ただ、店名を書くときとか伝えるときとか、大変だったのかな。

さて、お店を出て、駐車場で車が出てくるのを待ちながら、ふとターンテーブルを見た。IHI製だ。
今まで気にも留めたことがなかったので、へええとつぶやいたら、何故か駐車場の係員さんが、すかさず、
「大概がIHI製ですよ。それか日立造船ですね」
と教えてくれた。両方とも似たようなことを幅広くやっているようだが、IHIは、どういうわけだか外国の自動車会社とどうたらこうたらとニュースに出ていたような気がする。何だか曲がっているのでは。


丸といえば、円。眼鏡屋さんも最初のお店は、コイン通りにあった。造幣局があるからコイン通り。

廣宮孝信さん「国の借金」”新常識”

最後に。明日からお盆休みの店舗が多い。夕日も沈みきらない7時過ぎ、どこも早めの閉店準備で丹念に掃除したり、張り紙をしたりして、順にブラインドやスクリーンを降ろしていっている。お店の灯りがきれいだった。


2013年7月19日金曜日

脱兎のごとく

あっという間に帰り道の話。

高速道路、名だたる名所を次から次へとかすめて素通りで帰る。
出発したときは薄曇りで、山の方は雨もぱらついたが、下るに連れて薄日が差してきた。
名古屋北部の小牧も渋滞なく通り、木曽川を渡る。日暮れには少し早くて明るい。
iPodの曲が、カルリーニョス・ブラウンの「Argila」になったのだが、この曲はノイズのような雨音めいた音が入る。

と、フロントガラスに雨粒が落ちてきた。お天気雨だ。

曲にぴったり合わせたかのようで、雨粒越しに前方の空と雲の写真を撮ろうと思ったが、カメラが手近になくて残念だった。
久しぶりに会った家族のことをちょっと思い返す。



Carlinhos Brown
 Argila
(粘土)



粘土でペインティングした人たちの動画もあるのですが、
見ると疲れてしまう気がして。


歌詞と訳は、いつもの「箱と曲」から


Argila
(アルジーラ)

Uganda, cubana, ipanamana, baiana, luanda, nada ruanda, 
kinshze, manga, banana
ウガンダ クバナ イパナマーナ バイアナ ルアンダ ナーダ ルアンダ
 キンシャサ マンガ バナナ 

Vinha rindo e circulando
笑い、回りながらやって来た
Sobre tudo o cobertor
ブランケットの上いっぱい
Do teu olhar verreu meus olhos
君は僕の目をちらりと見る
E do teu olho joio
そして君の目から落ちる
Uma gota de orvalho
露のしずく
Que era vidro se quedou
それはガラスのように砕け散り
Vivendo em despedace
かけらとなって生きている
E o coração coador
そして心を見透す君は
Sorriu vexado de amargor e se pintou
苦々しく微笑み、顔に模様を描く
Com a lama da lagoa pra à toa correr ê ê ê ê ê
沼の泥で、気の向くまま走るために

Uganda, cubana, ipanamana, baiana, luanda, nada ruanda, 
kinshze, manga, banana
ウガンダ クバナ イパナマーナ バイアナ ルアンダ ナーダ ルアンダ 
キンシャサ マンガ バナナ 

Se for feito de argila
粘土でできているとしても
Seis enfeites de darei
六つの飾りをあげよう
Flores não andam em dúzia
花は束にするとよくない
Só foi uma que eu robei
僕は一本だけ摘んだ
Sorriu vexado de amargor e se pintou
苦々しく微笑み、顔に模様を描く
Com a lama da lagoa coa voa
沼の泥で、(工事中)

Ê zuzuê
エズズエ
Ê zum zum zum
エズンズンズン
Ê zuzuê
エズズエ
zum
ズン

Uganda, cubana, ipanamana, baiana, luanda, nada ruanda, 
kinshze, manga, banana
ウガンダ クバナ イパナマーナ バイアナ ルアンダ ナーダ ルアンダ
キンシャサ マンガ バナナ 

Solidão anda de muda
孤独な男は心変わりをしながら歩き
Sei pra sempre te amarei
ずっと君を愛していることを知る
Procurei pôr essas curvas
そのくびれを求めていく
Quem no Tororó deixei ê ê ê ê ê
トロロー特有の

Ê zuzuê
エズズエ
Ê zum zum zum
エズンズンズン
Ê zuzuê
エズズエ
zum

ズン




カルリーニョス・ブラウンの前記事は「ああ、少しは近くなったような(2012.11.14)」祝衆議院解散だった。ああ、本当に今でも嬉しい。




2013年7月18日木曜日

一息入れたところ

先日、夫婦で車に乗ってちょっと出かけたのだが、一息では目的地に行けない、ということで彦根に途中下車した。道中のちょうど中間地点だった。

夕方、ネットで予約していた大手チェーンホテルに着いてチェックイン。バスルームの狭さに憤慨する。全体に清潔感がなくて、スチール脚がめちゃくちゃ目立って貧相な椅子があった。
タオルも使い古されて薄べったい。ネットでも割に合わない価格で、プロパーだとさらに数千円高いなんて信じられない、とさらに憤慨する。
でも、「地方都市の都値段」なのだろうか。と、理解する。
かといって、部屋相応の値段にしたらお客は不審がるかもしれず、もういっそ、建て替えるかリノベーションすればいいのに。アメニティを一新する、あるいはタオルなどちょっと余分に用意をするとか。

まあ、気を取り直して、日が暮れる前にお城と琵琶湖でも見に行こうと、また車で出た。

彦根城。時間も時間なので、中には入らず外周を少し回る。風に揺れる並木とさざ波を立てるお堀の水が悠々とし、時間があれば拝観したのにと後悔した。お城のすぐ横に高校があり、ぞろぞろと高校生がお行儀良く、明るい顔で下校している。
お城の横には、高校があるものだ。といっても、ここ以外、私は二つしか知らないけど。

こうして高校生で賑わっていても、この子たちはすぐに町を出て行きそうだ。
お堀回りののどかさとは対照的に、町は小さく、規制があるのだろう、3階建て以上の家はなかなか見あたらない。ご町内の構えがまとまっているというか、まあ、由緒あるお城の町だものね。
若い子には息苦しいことだろう。と、余計なお世話を書いてしまった。そんなこと、私から言われなくても、何の珍しくもないことである。

お城を離れて通りを走れば、倉敷の美観地区みたいな、観光用の飲食店が並んでいるところがあり、小綺麗でも面白くない。雑多な感じがしないと人は集まらないのではないだろうかと、また余計なことを思う。
もう少し離れた通りは、ファミレスや量販店があって賑わっていた。こちらの嘘っぽさの方が、リアルな感じだ。

お城も見なくて良かったのかもしれない。いや、これは負け惜しみで、もちろん見聞するに越したことはない。

琵琶湖沿いも少し走ったが、晩ご飯を食べるところを見つけ損ねて、結局、歩いて彦根駅前の「彦一」さんに入った。ホテルの人に尋ねて教えてもらった店なのだが、これだけは、感謝した。駅前は、塾の前に軽食を取る高校生が多かった。

「彦一」さんはなかなか良い、普通の居酒屋さんだった。
生憎私は、ほとんどお酒は飲めないし、この日は疲れていてあまり食べられなくて残念だったが、実は最初、メニューを見て気になったのが、ビールの銘柄だった。
メインがあまり好きなメーカーでないので、仕方なく瓶ビールのほうの銘柄にした。

さっき「彦一」さんを検索したら、「食べログ」というのに、同じように考えてビールを注文された方がいた。そして、別の方の書き込みで知ったのだが、「彦一」さんは大手ちゃんぽんチェーンの運営店舗のひとつだそうだ。HPで沿革や社史を見ておいた。

きょうはここまで。この記事を読んだ夫に叱られた。悪く書いているつもりはない。それどころか、自分が住んでいる気持ちになって考えてしまうというか、何処へ行っても興味深いからなのだ。


2013年6月30日日曜日

一息ではなく、ゆっくり

健康備忘録

ヒアルロン酸が大事みたい。
「ハダカデバネズミ」が、ガンにならない理由 (WIRED、6月26日)
最初、苦労してハダカデバネズミを一気読みしたが、ハダカでデバだった。
裸で出っ歯。何だか近しいものを一瞬感じてしまうが、それはなかったことにしよう。

こんな痩せ痩せのねずみなのに、長寿だそう。
それも本気で長寿、30年近く生きるそうで、呼吸も普通のネズミと比べてゆっくり。まさしく長息。蟻や蜂のように群れを形成して生活するのも特徴らしい(wiki,jp 上のWIRED記事中に文中リンクがあります)。

検索してみたら、このネズミは結構有名なようだ。
貴志祐介さんという方の『新世界より』というSF本があるらしく、アニメ化もされたそうだが、それにバケネズミというものが出てくるらしい。ハダカデバネズミを進化させた生物となっている。
それはそれとして、本のタイトルにもなっている、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」、そのなかでも第2楽章を編曲した「家路」は、私が通った小学校では学校に残って遊んでいる子どもたちに下校を促す曲だった。貴志さんの小説でも同様に使われているらしい。

私は、この「家路」が大の苦手だったので、ずっとドヴォルザークを聞きたいと思ったことは無かったが、何年か前に一度、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」を小さな小さな音楽会で聞いたことがある。
なかなかよかった、ような記憶がある。弦楽の先生やプロ奏者として活躍されている方々の演奏はもちろん、素晴らしかった。






2013年6月29日土曜日

クルマは潰さずに

飛行機からいつもの車の話。

春、我が家は車を買い替えた。10年以上乗った前の車とお別れするのは、大変辛かった。そのもう一つ前の車も10年はとっくに過ぎて、走行距離も20万キロ以上だったが、廃車ではなくニュージーランドに行くことになっているとディーラーの人から聞いていた。なので、別に寂しくも悲しくもなく、のんびりと余生を送って欲しいと願った。
ところが、前の車と今の車はメーカーが違う。今の車のメーカーが下取りはしてくれたが、すぐ廃車かと思うと、悲しかった。
せめてオークションにかけられて、必要な部品を取ってもらえたらと思った。
この辺のことを私は全く知らない。

ともあれ、何処かをのんびりと走っていて欲しい。公園か空き地で、のんびりと停まっていて欲しいと、時折私は夢みる。


アメリカ自動車中古パーツのリサイクル業者LKQさんの話

アメリカの自動車リペアパーツの市場は2000億ドル。自動車の修理交換でリサイクル部品が既に80%(数量ベース)以上、使われているらしい。
日本はどうなのだろうか。

珈琲バカさんのバンパー哀歌 






抜け落ちていた人

この間書いた『フランバース屋敷の人々』で、主要人物であるウィリアムの名前が落ちていた。クリスチナの二人の従兄弟のひとりで、マークの弟にあたる。
わざとではないが、何となく書くのが面倒で、それに私はクリスチナとウィルが中心となる第二部が苦手だった。
馬の話が読みたいのに、飛行機の話だったのも面白くなかったし、大体、第一部の終わりからして、クリスチナとウィリアムの関わり方が腑に落ちなかったせいだろう。

その飛行機の話なのだが、1912年のロンドン、本の中では、馬車もまだ走っているが、裕福な地区では自動車も多く走っていたようだ。そして、飛行機が飛び始めて間もないというのに、既に「飛行学校」(訳文ママ)飛行機の教習所みたいなのが幾つか出来ていて、運転を習いに来る生徒の予約もいっぱいだったりしている。

その「飛行学校」の指導員であるサンディという青年が、お金持ちで美貌の生徒ドロシーにお茶をご馳走する場面がある。私はこの二人が、主人公たちより終始好きだった。かといって、読み返してみれば、ウィリアムも別に嫌ではない。ただ、馬ほど好感が持てないだけかもしれない。

ウィリアムとサンディは、お金を稼ぐために幾つもの航空ショーに参加し、曲芸飛行をやってのける。この第二部『雲のはて』では、全編を通じて、そうしたショーや曲芸飛行に伴う危険や事故が容赦なく書かれている。
でも、読みながら、単葉機・複葉機の区別すら、私は気にしていなかったと思う。

さて、現代の話。
つい一週間ほど前に、米連邦航空局職員で「ウィングウォーカー」(飛行中の複葉機の主翼に乗ってパフォーマンスをする)のジェーン・ウィッカーさんという方が、飛行機の墜落により亡くなったのを知った。私はテレビも新聞も見ないので、事故のことはすぐには知らなかった。

人は、というより、アメリカの女性(お国の大きさからして、ニュースの頻度が多いので)はこんなこともできるのかとタフさに驚くことが多いが、ウィッカーさんと息子さん二人や、もうすぐ結婚する予定だったフィアンセとの写真を拝見すると胸が痛む。

ジェーン・ウィッカーさん

US-2 新明和工業 私は全く技術系に弱いのだが、スレを拝見すると救難用の素晴らしい水陸両用飛行艇のようだ。離着水の技術が素晴らしく、実際に操作・救助する海自の人たちの能力もすごいようだ。当たり前のように見えるけれど、日頃の訓練のたまもの。
新明和さんが、理髪店のシャンプー台やゴミ収集機、立体駐車場などを作っている身近な会社だとは知らなかった。

こうして書きながら、私には何の技術も能力も経験もないことに気付く。
それとは何も関係ない話だが、洗濯機の買い替えを決めた。それでも新しい日がやって来そうで嬉しい。




2013年6月23日日曜日

続きではないけれど

今宵は満月だそうだ。残念ながら、雨が降り出した。

空を見上げるといえば、ちょうど先日、映画「天地明察」のDVDを借りてみた。
原作は同じタイトルで、冲方丁氏の『天地明察』。江戸時代の囲碁棋士であり天文暦学者である安井算哲(後の渋川春海)を描いた作品だが、原作やコミックはまだ読んでいない。

唐突に借りたので、映画についての予備知識はなかった。

V6の岡田君が主演で好感が持て、最初はまあ、色々と目をつぶっても楽しいのだが、だんだん白々とした気持ちになってきて不愉快になり、しらぁと終わった。
演出やキャストとか、何やかんやと嫌なのかもしれない。
見る直前まで監督が誰だか知らなくて、DVDのケースを見て私が見たくないと思っている映画を撮っている人だったので、嫌な予感はしていた。それが当たってしまったというより、やはりそうだったかと妙に納得してしまった。
原作を読んでいたら、もっと怒っていたかもしれない。

ああ、悪口を連ねてしまったが、何を言いたかったか思い出した。
安井算哲をバックアップする中井貴一演じる光圀公が、プーチソ閣下にそっくりだった。

*冲方丁 (wiki.jp)



続き

前回記事の続き。
『フランバース屋敷の人々』のテレビドラマ化は、主役たちが原作のイメージとは違って残念だったけれど、イギリスの児童文学で思い出したのが『床下の小人たち』(メアリー・ノートン著)。
これもドラマ化されていないかと動画を検索すると、あった。

The Borrowers (1992年)


アリエッティは可愛いし、ポッドとホミリーの両親も男の子もイメージ通りな気がする。
1973年アメリカ制作の映画か何かの動画もあったが、こちらは舞台向きの人たちなのかも。髪型がアメリカホームドラマっぽいホミリーが怖い。
他にも映像化されているようだ。
宮崎アニメはハイジの頃から苦手だから、見ない。

さて、順序は逆だが、今度は『床下の小人たち』の原作が気になって、読み返してみた。本の紙が黄ばんで古くなって、この本によく出てくる、吸い取り紙、にできそうだ。
最初の出だしで、ケティおばさんが使用している「朝ごはんの間」について、朝の日差しで明るい部屋も、太陽の動きとともに「妙にしらじらした光」で悲しげな雰囲気を漂わせるようになるまで、細かく書いている。イギリスやヨーロッパの映画には、ハッピーエンドがあまりない、という話を思い出した。現実的でシニカルなのが自然に感じる。

男の子のアリエッティら小人に関する見方も、「怒りっぽくて、うぬぼれや」と的確だ。小人が何故小人になってしまったか、という考察も面白い。
この小人シリーズは、二作目からは記憶になくて、また時間があれば読んでみよう。

最後に。『フランバース屋敷の人々』に頻繁に出てくる狩猟で思い出したが、

『狐になった奥様』  ガーネット著(wiki.jp)

狐になりたての頃のシルヴィア奥様のテーブルマナーが、いじらしく可愛い。子狐たちの性格描写もおもしろかった。
短編小説で、シルヴィア奥様の変化に伴う夫テブリック氏の変わらぬ愛情や心理描写が連綿と続くのだが、それよりテブリック氏が「妻が狐になっては仕方がない」と受け入れたこととか、氏の世間との関わり方のほうが印象的だった、はずなのだがよく思い出せない。
この本は借りて読んだので、手元にない。
プロジェクト・グーテンベルクで原文が読めるようだ。でも、読んでみるには季節的には冬がいいかな。
挿絵の版画がよかった。




2013年6月22日土曜日

『フランバース屋敷の人々』のテーマ曲が、実に耳に付く。

夏になってしまった。
お昼ごはんがビールで、晩ご飯がソフトクリームだったらいいのに、と思う。
今日は雨上がりで、涼しいくらいだけど。

ところで、先日、馬が好きな方にお貸ししていた本が返ってきた。もう、40年以上前に書かれた『フランバース屋敷の人々』(イギリス、K・M・ペイトン著)三部作である。

そのシリーズは、第一次世界大戦前後のイギリスが舞台で、第一部は、12歳の少女クリスチナがロンドンから田舎のラッセル伯父の家に引き取られ、二人の従兄弟や屋敷の使用人たち、地方社会の人々との交わりを通して、どうたらこうたら、という物語である。
この第一部の主役は何と言っても馬だろう。クリスチナはラッセル伯父にまず乗馬を習うように言われ、馬に親しみ、狩りを楽しみ、レースを観戦する。最後は狩猟舞踏会にドレスアップして出かけるまで成長したクリスチナも、馬とは違う乗り物に乗ってフランバースを後にする。
その最初の一冊だけ、小学生の頃に買ってもらい、箱入り装丁の表絵が大好きだった。乗馬服に身を包んだクリスティナの後ろ姿が堂々と格好良くて、こんなふうに馬に乗れたらと憧れたものだった。

このシリーズは時々、読み返してみると、面白い。クリスチナが将来受け継ぐ両親の遺産だけが乙女チックなファンタジーだけれど、辛くて(からくて)現実的な筆致で綴られていく。

お貸ししていた方も非常に気に入ってくださった。
「実はね、続きがあるんですよ」
と話すとびっくりされていた。

三部作の物語は後味よろしく、完結だったはずなのに、好評すぎて読者に後押しされて続編が出たらしい。大人になってから知った私は、急いで買いに行ったのだが、読んでがっくりしてしまった。私に限らず、大概の人は読むんじゃなかったと思うだろう。

ところが、これもまた時間を置いて読み返したら、思わぬというか気に入らない展開を受け入れてしまったし、前の三部作と同じで読み返すほどに分かることがあったのだが、その四作目はどこかに行ってしまって、読み返そうにも手元にない。


さて、この物語ならドラマ化されて、動画に上がっているかもしれないと検索すると、70年代にドラマ化されていて、ファンの方々が少しずつアップしてくださっている。


YouTubeの「Flambards episode one」 、最初の方が、かなり長く見られて嬉しい(クリックしてみてください)。でも、何故かこのブログには、そのままアップできないのが、残念。


いきなり終盤で申し訳ないけど。
Flambards TV series Final/Credits



テーマの音楽が、70年代の音楽で、何だか不思議。制作は70年代初頭かと思ったら1979年なので、80年代寸前の音楽なのだろうが、どうもそういう気がしない。

シリーズ四作目とおなじくらい、がっくりしたのが、演じる人たち。
20世紀初頭の時代に合う顔立ちか70年代の顔立ちなのか、どうしても馴染めない。

マークは、一作目から常にハンサム、美貌の持ち主、魅力的だとしつこく書かれているし、クリスチナの友人ドロシー、彼女も圧倒的な美貌の持ち主のはずなのだが、両者とも、イメージとは違う。
圧倒的に美しい人たちは、圧倒的な美男美女に演じて欲しいと思う。

そして、ディック、彼は淡いブロンドとで、マークとは別のタイプながら匹敵するくらいハンサムなはずなんだけど。
主人公のクリスチナは、端から自信満々すぎて、いつも笑顔なのに可愛く思えない。

と違和感ありで残念なのだが、このTVドラマは全編見たいと思うし、結局この人たち、これだけ印象的なら、ドラマはリメイクしにくいかもしれない。



テーマ曲とともに




レコードのノイズが入っています。
ライナーノートに、
TVシリーズの人たちが写っていますが、
イメージ的には途中のこんな方たちの方がまだしっくり来るかな。

ともあれ、動画主さんたち、ありがとう。






2013年4月21日日曜日

Celso FonsecaのParadiso(パラダイス)


外は夕刻だというのに、まだまだ明るかった。傘を開くと、強い風が雨を吹き付けてきた。ちょっと歩いたら、息が白く見えるのに気がついた。

お世話になったN先生を偲ぶ会がホテルで開かれて、夫とともに出席。
N先生が、ご自分で段取りを考えていらっしゃったというその会は、何とも言えず洒脱な、N先生のお人柄そのままの、本当に心温まる会となった。
神仏混淆ハイブリッド式と先生は仰っていたそうだが、ご遺族と出席者代表によるご焼香の後、祭壇が一変した。神職資格を持つ方が祭詞を奏上され玉串が奉られた。この一連の流れが極めて自然に行われた。

そして和やかに、先生のご希望通りに明るく楽しく、出席された皆さまとともに先生を偲んで歓談し、お別れを告げることができた。
何と素晴らしい会だったことだろう。
先生、ありがとう。

帰りは、風も止んでしめやかに降る雨が心地良いくらいだった。


Celso Fonseca
Paradiso
(パラダイス)


訳はいつもの箱と曲からです。
歌の最初のほうというか、
歌い方とか声とかあまり好きではないのですが、
この曲は気に入りました。
バックがいいですね。


Paradiso
(パラダイス)

O que a vida perguntar
人生が求めるもの
Deixa a vida responder
それは人生に応えさせる
Tolo é quem não quer acreditar
信じようとしない者は愚かだ
O chamado da paixão
パッションの叫び
o que alegra o coração
心を歓喜させるもの
O que a vida tem de mais vulgar
どんな人生が俗に香るのか

Venha ser meu paraíso
ここに来てぼくのパラダイスになってほしい
Artifícios furta-cor
虹色の装置
Tudo aquilo que eu preciso
ぼくが必要なものはそれだけ
É você meu céu azul
君はぼくの青空

Céu azul é de quem surfar
青い空はサーフィンをする者に属す
Vem na onda azul do mar
海の青い波に入り
Solta o ar e prende o fôlego
息を吐いて止めるんだ
O que eu chamo ilusão
ぼくがイリュージョンと呼ぶもの
Outros chamam solidão
みんなそれを孤独と呼ぶ
O que a rima tem de mais vulgar
どちらの押韻が俗に香るのか





2013年3月14日木曜日

3月の豆ごはん

季節的には、ちょっと早い気がするグリンピースご飯を炊いた。大好きだ。
でも、うすい文豆はまだ少量しか出ていないから、普通のグリンピースにする。
大体豆ごはんなんて、4月中旬から5月初めごろにかけて食べるものだと思うが、近頃、スーパーには早くから並び始めているから驚く。

そうそう、3月の豆ごはんというと、大阪で食べたのを思い出す。ちょうど今頃だった。晴天の翌日で雨、寒かった。

大阪の街中を車で走っていた。運転はもちろん、家人。
あるところの信号で止まったとき目に入ったお店があった。和食のお店で、暖簾か何か目立つものにうなぎの字が見えた気がする。数年前なのに、細かなことは覚えていない。
それに、私の目は何も見えないから字が見えた筈はないし、ウナギは好きではない。でも、お昼はそこにしようと決めた。

お店の入り口近くにお昼のメニューが書かれていたと思う。「豆ごはん」とあった。グリンピースご飯と書いていたかもしれない。こんな3月のまだ寒い頃に豆ごはんだなんてと、少々面食らいつつも、入ってみた。
一階ではなく二階に案内されたので、とまどった。大きな水車が設置されていて、それが嘘くさいと言うよりも、けったいな雰囲気を醸し出していて、ぐるりと回るように階段を上がった。
二階は二階で、テーブルと椅子があるのではなく、右手に大きな広間のお座敷があって、左手には個室のお座敷があった。

左手の小さな個室に通されると、ひときわ大きな銅鑼があった。
間近で実物を見るのは初めてだ。その前には黒電話。来るところを間違ったかと思ったが、お値段が高くてひるみそうなところという感じでは無い。お品書きを渡されて、私は豆ごはんの定食にした。普通のお値段だった。

ところが、一向に注文を取りに来てくれなかったか、何の用事だか忘れたが、お店の人を呼ばなければならなかった。襖を隔てた隣のお客さんの給仕に来たお店の人をつかまえると、はいはいと聞いてくれたのだが、
「何かあったら、鳴らしてくださいね」
と言って、下へ降りていった。

鳴らすって何を?
銅鑼だろうか。電話なのだろうか。私達家族は、分からなかった。

豆ごはんは美味しかった。

支払いは一階入り口の近くだった。領収書は要りますか、と聞かれて、もらうことにした。接客でもない調理をするでもないような普通の女性が、椅子に座ってカウンターで領収書を書き始めたが、ふっと止めて両手で顔を覆い、間違えましたと言った。
そして驚いているのか笑っているのか半々で、あたふたと書き直し始めたのだが、何故かまた、失敗をして狼狽えていた。
私は別に領収書は要らなかったので、結構です、と断ることにした。でも、何をそんなに笑うほど、間違えたのだろうか。
私の視力では見えないのが、残念だった。

店の名前を覚えていないので、Googleマップで調べてみた。
お店は「割烹とんぼ」さんだった。

銅鑼は本当に鳴らすらしい。
記憶間違いで書いている部分があると思うけれど、それはそれでごめんなさい。



2013年3月10日日曜日

面妖な町


前回続き。

駒井邸を訪ねるのに、付近の駐車場が結構満杯で予定外のところに停めた。そのおかげで、たまたま猫町カフェさんというお店に入ることとなった。
お昼のランチは3種類。
私はカレーが好きなので、野菜カレーを注文した。夫は地鶏のソテーセットで牡蠣のチャウダーや自家製のお漬け物付き。
どれも丁寧に作られていた。繊細でとても綺麗。

このお店の辺り、一乗寺には「恵文社一乗寺店」という有名な本屋さんがある。
一度入ったことがある。雑貨や作家ものクラフトも多数置いてあったが、小さなポチ袋だけを買って帰った。
近所に住んでいたら、しょっちゅう通っているかもしれないけれど、どうなんだろう。もう、こうした本屋さんに、わくわくしながら行くことはないかもと思う。

それよりも、一乗寺がご実家だという知人に遭遇するほうが、面白いかもしれない。知人といっても、私は電話でしか声を聞いたことがない。
猫というより、狸かもしれない。狸おやじ。

猫町カフェさんの店名由来となった、萩原朔太郎の「猫町」(青空文庫)
「私」が見た猫の町の話。
冒頭に引用されたショウペンハウエルの言葉といい、第3章といい、今読んだ方がよく分かると思った。中枢部は、記号的には、猫でも杓子でも、それこそ狸でも何でもよいが、猫でないと様にならないし、売れないだろう。



京都駒井邸




何だか、とってつけたように載せて、
故駒井博士にお悪いです。




2013年3月8日金曜日

松ぼっくり



京都の駒井家住宅(駒井卓博士・静江記念館)を
訪ねました。


ピアノの上の松ぼっくり。
庭の松は、まだまだ成長を続けているそうです。 



松は長寿の象徴。


お昼ごはん、
駒井邸から、ちょっと離れた駐車場に車を駐めていたのですが、
そこの鼻先にあったお店に入ってみました。


grill&cafe猫町さん


店の中から。


後で検索すると、
萩原朔太郎の小品に由来する店名だそうで。





2013年3月5日火曜日

バナナの力説

だいぶ日が長くなってきた。
ちょくちょくと、病院へ「ちょっとお見舞い」に行っている。

入院されているのは、お若いときから様々な疾病で入院経験をお持ちの自称ベテラン患者でいらっしゃるが、付き添われている奥様が、だいぶお疲れのようだ。

先日は買い物をしたあとに、病院へ回る予定だった。でも、デパートの地下を二つ回ったのに、お見舞いにと考えていた品がなくて困ったなと思った。
それで、デパ地下で自宅用に買ったバナナを差し上げることにした。
ちょうど小さな紙袋が余分にあったので、それに入れた。

これは、付き添いの奥様に召し上がっていただくためである。
バナナは進物用ではないし、立派な奥様に失礼じゃないかと気がとがめたが、家人が言うには、
「バナナはリンゴやメロンと違って、ナイフもフォークもお皿も要らない。みかんと同じで皮を剥くだけで食べられる。
昔は高級品でお見舞いの定番だったバナナも、今はそうじゃないから、誰もお見舞いにバナナは持って来ないだろう。
親戚の人は特に持って来にくいと思うよ。
バナナは朝食にもおやつにもなるし、夜食にもちょうどいい。
付き添いの方に差し上げるには、ぴったりだよ」

なるほど。
一聞けば二十は答えが返ってくる家人である。

さて、その力説付きのバナナだが、奥様は大変喜んでくださった。
奥様にはお気遣いなくといつも言われているし、手ぶらでお伺いすることも多いが、何か気が和んだり、あると助かるようなものがないかなと、考えるのも楽しい。

この間は、加賀棒茶で有名な丸八製茶場のお茶のティーバッグがあったので、お持ちしてみた。テトラ型のティーバッグで、缶ではなく6ヶ入りの袋にした。
店で遠目から見ると、個性的なパッケージだと思ったのだが、近くで見るとそんなに好きな絵柄ではない。だけど、プチギフトにはよい感じ。


そうだ、話は変わるが、ずいぶん昔のこと。
朝は10時過ぎ頃、市役所近くの停留所でバスを待っていたら、ふらふらとどこからともなく若い女性が出てきた。薄着だったから、春か夏の頃だった。
停留所のすぐそばにある自動販売機で、ジュースなどをごろんごろんごろん、と何本も買って、両手に抱えた。
すっと手を挙げてタクシーを拾い、走り去った。
友達に会うのだろうか、何だか気楽でいいなあ、と思った。

追記
両腕に缶ジュースを抱えたまま、すっと手を挙げられるわけがなく、ちょっと国道際に立っただけでタクシーが止まったのだった。


2013年3月3日日曜日

ひょっとして、こんな道だったのだろうか。

もう3月になってしまった。
ずいぶん前に書きかけていたの話。

昨年末、友人と会って話をしていたときのこと。
新しい職場の話を聞いていたのだが、そこから車の故障の話になった。前に聞いたことがある話とは別の故障の話だったのだが、故障というよりは運転ミスで、それも道路に関連してのことだった。

その友人は、長い間アメリカに住んでいた。ある時、仕事でオレゴン州を車で走っていて、急にお腹が空いてしまい、買っておいたサンドイッチを無性に食べたくなったらしい。どうしても我慢できず、運転をしながらサンドイッチのパックを開けて、添えられていたマヨネーズのチューブを破ろうとしたら、なかなかそれがうまく破れない。
ふと、気がつくと突然道が曲がっていることに気がついた。時既に遅く、曲がりきれずに横へ突っ込んだそうで、そこは砂漠地帯だった。

砂漠といっても、荒れた地形にサボテンが生えているような砂漠なんだと思う。オレゴンには高原型砂漠があるそうだ*(wiki.jp)


さて、前に聞いた故障のときは、車に詳しい人が現れて助かったそうだから、その砂漠で、救世主ジョンは来なかったのかと聞いてみた*(当ブログ2011.12.22) 。残念ながら現れなかったそうだ。
どうやってそのトラブルから脱出したか聞く前に話が逸れたので、今度会ったら、サンドイッチに後からマヨネーズを掛けるものなのか合わせて聞いてみようと思う。

話が逸れたというのは、友人が、そのジョンさんに直してもらった故障の遠因となったことを思い出して、何か感じるものがあったらしく、また話してくれたからなのだが、それは、別の車で、アメリカ中部の南北の州にまたがって何度か行き来していたときのことだそうだ。2011.12.22の記事では、友人がミシガンから横断していたときと書いたが、私の記憶間違いであった。別の出来事と混同していた。

ともあれ、友人が南の仕事を終えて北へ帰る途中のあるところに、横手にいつも見える山があったそうで、その山を上っていく道が見える。
「それがね、道がね、曲がっていてね、その曲がった道がどうしても気になって」と、ある日ついに、そこを通って帰ろうと友人は決めた。
そこに山があるからではなく、曲がった道、山道があるからということだった。
ところが、
「途中まで上りかけたんだけどね、気が変わって引き返すことにして降りていったら、町の中で調子が悪くなってしまって」

こうして二つの話を合わせると、なるほどと思った。
アメリカはあくまで道はまっすぐで、突然道がカーブするなんて予定外だったのだろう。反対に、くねくねと曲がる道は、単調なドライブが続くと、惹きつけるものがあったのだろう。

でも、遠くからは小高い丘のように見えた山も、近づけばかなり大きかったのかもしれない。ナビも無いし、途中で引き返して正解だったのではないだろうか。
と、私は自分の中で、映画に出てくるような何も無いところを走るまっすぐな道と、青空の中にのんびりと構えた山、そして遠目でもはっきりと見える蛇行する道、つまり美しいドライブウェイを思い描いていたのだが、いや全然違う、こんな道だったのかもしれない。

それは、元トラック野郎の珈琲バカさんが経験した山の道路の話。崖と谷の世界。
そういえば、我が家も車で出かけて、怖い思いをしたことは何度もあった。私の別の友人もよくHPに書いているが、峠は怖い。山道は怖い。

*「珈琲バカさん」のわこうさんのブログ(top) 
「嗚呼、トラック野郎」内の「曲がらんね」(2010年3月15日)

ネットで車のことを検索していて、拝見しました。この方は多方面でご活躍されていらっしゃるようで、HP(ブログ)に載せられているプラモデルが面白く、美しいです。


物流の要、トラックの運転手さんには感謝です。


そうだ、元々は道というか道路の話で、インフラ、なかでも高速道路の老朽化にようやく関心が向けられるようになってきたこの頃、日本の高速道路建設は、諸外国と違ってコストが高くなるのは必然、ということに納得した話を書こうと思っていたのだった。

*短足おじさんの思いつ記
「高速道路無料化の愚(2009年8月15日記事)
大型トレーラーが写っていますが、短足おじさんが仰るように、こんな車が高速を走るようになるとは建設時に考えていなかったでしょうね。
「珈琲バカ」のわこうさんがトラックの運転手だったころの話と読み合わせると、過積載や、道路構造の問題点などが運転手の責任になって大変なことがよく分かりました。


これは無理かも。
*痛いニュース(2013.2.27)
時速80キロ・車間4メートル、トラック隊列自動走行/NEDO


まあ、インフラ整備を期待したいです。ばらまきじゃありません、必要ですね。




2013年2月20日水曜日

まわりくどくも、10年

前回、神社で参拝するときの拍手を打つ回数について書いたが、厳密に決まっていたわけでもなく、せいぜい明治時代くらいから全国的に統一されたのだと思う。検索するといろいろ出てくると思うが、神事をしにお参りにいくわけでもないし、あまり深くは考えまい。
作法とは順路のようなもので、それに則って進めば、ああだこうだと悩む無駄がなくて安心できる。
まあ、そうしたお参りも一種の方便で、神様でさえも「一種の方便(メソッド)だと言ってしまえば、身も蓋もない」とどなたかが書かれていたのを読んだことがある。すべては記号でお印のようなもの、かもしれない。

話が逸れていきそうなので、本題。
ここ数日、PさんのHPを読み返していた。そのHPは既に10年くらい前に閉鎖されているのだが、少しプリントアウトして残しておいた。Pさんというのは、哲学者由来のお名前で、教養講座のページはあったが、あとは、ほとんど私には理解できない話ばかりだった。
でも、面白かった。

教養講座の中に経済史から今後の世界を考えるという話があって、商品価格がサイクル理論で上がっていき、中東戦争も勃発し、原油価格は上昇するでしょうと書かれていた。
これは、誰もが予想できる当たり前の話だったかもしれない。
そういえば当時、「国家破産で円大暴落」というタイトルの本が、年中閉店セールの幟を掲げている紳士服店のように新聞の広告面を占めていたので、原油価格の上昇とともに円安(暴落)になったらどうしようかと思っていた。
原油価格のことばかり私は取り出して書いているが、ちょうどその頃、今と同じように車の買い換え時期にあったからだ。

あのときに選んだ車、つまり今、乗っている車を買うときに、ひとつだけ気になったのが燃費だった。当時乗っていた車も同じメーカーで平均8〜9㎞しか走らない。せめて11キロは出て欲しいと常日頃から私はやかましく言っていたのだが、燃費は変わらないようで悩ましかった。
いや、他のメーカーと比べても正直大差ないと思ったのだが、原油価格自体が将来的に大幅に上がるのではないかと不安だった。多少燃費のよい車に乗っても仕方がないようなことになるかもしれない。

だけど、車を購入するときに原油価格が上昇しそうなのが怖い、なんて言う人はいない。私は試乗車の中で、
「今はガソリンが70円、80円でも100円を越して、120円、140円になるかもね」と呟いたのだが、あっけなくその夜だったか、購入を決めてしまった。

それから世界では気になることはいっぱいあったが、幸い全世界を巻き込むような戦争には至らなかった。
そうそう原油価格はぐんぐんと上昇していった。
ほらね、と思う余裕はなかった。世間は素早い。理論ではなく現実への対応が早くて、低燃費エンジンが開発され、消費者はエコカーにどんどん乗り換えていったのに、我が家は燃費の悪さを嘆きながらも、今の車が好きなので買い替える気にならなかった。

でも、あの10年前、燃費の悪さを承知で何故選んでしまったのだろう。

PさんのHPにはちゃんと答えが書いてあった。
ワイマール体制下のドイツ政府とドイツ国民に対してのコメントで、
「皆、当面の傷みを感じず過ごせればよく、破局の先送りを甘受するのが民主主義国家とその国民なのだ」
別に当時のドイツ人に限らず、今が良ければ先のことは考えまい、と思うのが人間の常なのだろうが、意外と世の中、そういうものなのね、ということに驚くことが多いという話なんだろう。だって、人間だもの、ということか。
それに、先のことばかり考えていては物事は進まない

ともあれ、あのとき、好きなものを選んで後悔はなかった。困ることはあっても。



うーん、それにしても社会保障関連の税・保険料負担の上昇に、その日は来るのね、というのを実感している。





2013年2月13日水曜日

何事ものんびりしてしまって

この間、ようやく氏神さんへ初詣に行ってきた。

参拝するとき、宮司さんが出てこられて幣で頭を払ってくださるのだが、今回タイミングが合わず、「二礼二拍手一礼」と大きな声でご指導を受けた。

いや、もちろん存じています。

と少々慌てながら、バタバタと頭を下げたり、柏手を打ったりしたのだが、私は手を合わせても、頭が空っぽになっていて何も言葉が出てこなかった。
いや、何をするにしても無意識ではいけない。ぼうっとお参りにきてしまっていた。

でも、忘れずに小さな神棚に祀るお札をふたつ、買って帰った。

さて、その氏神さんなのだが、昔、大変博識な先生に、そこは出雲大社系列の神様を祀っておられるから、出雲式で「二拝四拍手一拝」で拝礼するようにと教わったことがある。
他にも作法を細かく教えていただいて、私は一時期お参りに定期的に通っていた。
どうしてお参りに行っていたかというと、願い事があったわけではなく、日々無事暮らせているお礼を申し上げ、あることについてどうしたらよいですか、という質問を委ねるためだった。

最初は堂々と四拍手していたのだが、だんだんと二拍手したあとそっと二拍手加えるという姑息なやりかたに変わり、お終いには二拍手になった。
こうして、割と熱心に一人でお参りをしていたのだが、ある日、ぱたりと行かなくなってしまった。というのは、神社のすぐ近くに、私にとって関所のような難所が出来てしまったからだった。どうもその近くを通りにくい。

そして皮肉にも、どうしたらよいですか、と困り事の中心にあったものが、私のそばを離れたのはいいが、そこに鎮座してしまったのだった。

だけど、それから数年経ち、難所を通り過ぎるのも平気になってきた。勢い余って氏神さんも、また今度と通り過ぎてしまって申し訳ないが、その難所、確かに私の中では存在感が消えて無くなっているようだ。

有り難いなと思う。

最後に。今日は全然別のことを書きたかった。



2013年2月5日火曜日

ものを言うタイミング


早川じゃなかった、白川さんが任期前に辞職とかで、もう春が来たような感じ。

ところで、大陸からの大気汚染物質が話題になっているが、前の政権だったらどう報道されていたのかしら。
ついこの間まで、どうして大陸からの大気汚染物質のことを公表しないのかと怒っていらっしゃるブロガーさんもいたくらい、今まで知らないふりがなされてきたと思う。

それがもう隠せないほど酷い状況になっている。

でも、多くの人は悪いものが飛んできているのをずっと前から知っていたはずだろう。
2月くらいになると喉が痛くなるから、変だと身をもって分かる。

10年以上前のことだが、気功やストレッチ、ヨガなどをミックスさせた体操教室に通っていたとき、生徒さんたちから風邪でもないのにどうして喉が痛むのかという話が出た。先生も気になっていたらしく、暫くして「これよこれ」とある健康食品関連の会社のミニ新聞に大陸からの化学物質のせいと書かれていたのを持ってきてくださった。

へええと驚いた。化学物質が体に良いわけはなく、どんなに悪い影響があるものなのか次第に分かってきたのだが、こういうことは人に話しても相手にされない。
「悪いものが混じっているから気をつけたほうがいいよ」なんて言っても、電波がかっているようにしか受け止められなかった。

きっともっと前から知っていた人だって、たくさんいたと思うし、現地に駐在経験がおありの方もいろいろとご存知だったと思うが、誰も余計なことを言わなかった。
対策の施しようがないし。

さて、白川さん、何も余計なこと言わないでね。

そうそうタイミングというと、菜の花の茹で方。
先月は七草がゆの日あたりにスーパーで、大分産の菜の花を買った。例年よりだいぶ早い気がする。菜の花は毎回、茹で方というか、菜の花をお湯から引き上げるタイミングがつかめない。検索してみると、たっぷりのお湯ではなく、少なめのお湯で茹でるように、と書いてあった。土井信子さん方式*。
理屈を読めばなるほどと思った。
たっぷりのお湯だと、再沸騰するのに時間が掛かる。
やってみると、うまく茹でられたと思う。迷いがない。

ということで、ほうれん草を茹でるときもお湯は少なめにすることにした。たっぷり方式だと、ほうれん草を少しずつ茹でていっても、引き上げる度になかなかお湯が沸騰しなかった。
この方式に変えてから、なかなか調子がよい気がする。
電子レンジを使うのは苦手。野菜の重さとか時間とか考えないといけないことが多すぎて。


菜の花の茹で方 「知って得する野菜の活用術」





2013年2月3日日曜日

いっぱい、聞きかじってきた

2月1日、何だか騙されているような気がする。
2月2日、何だかあえて印象が薄い。
これは暦の感覚のことなんだが、あとに、節分、立春と続くせいだろうか。

さて、このあいだからについて話を書きかけていたのだが、さすがだけあって道のりは遠いし、脇道へ逸れていってしまうので、今日はまた車の話で前回記事の続き。

車が趣味ではないが、車検の時期や走行距離20万キロに近づいているので、目下最大の関心事となっている。
できればもっと長く乗りたいのだが、燃費が悪くてガソリン代が負担である。

でも、これはと思うような車が無い。
そんな折り、先週ひょんな展開で車Aを試乗しに行ったときに、突然名前が浮上してきた車がある。地味で不人気らしい。Aと同じメーカーなのに、その名を出すと営業の人たちが狼狽えた。積極的に売りたくないようだ。
それならば買い手にとってはよい車だろうと益々惹きつけられたが、展示試乗車は県内に3台くらいしかない。

幸い中古車があったので、先に見に行ってみた。年式は昨年で新しく、カタログよりずっと実物はきれいで好ましい。中はさっぱりとしているが、落ち着いていて貧相ではない。我が家は高級感は要らないから、これくらいでちょうどよい感じ。
飽きずに長く乗れそう、ということは回転率を考えるだけの販売なら、売り手は嫌がる。
また、そのメーカーを好む人たちからはテイストが違うようだ。至れり尽くせりのおもてなし感がないし、ステータスシンボルでもない。知名度が低い。

つまり不人気車の王道で驚くことではないのだが、この中古車販売店の担当者から話を聞いて改めて感じたのは、いまだ回転率だけの販売の仕方が主流なのかということだった。
今の若い世代は、自分の価値観を大事にすると思うから、販売の仕方や車も変わってきているのではとないかと暗に思っていたので、意外だった。
道理であの車Aは、中に乗り込んだときから降りたくなるような車作りをしているわけである。車自体を5年後にヨタヨタと壊れるように作っているわけではなく、わざと飽きるように作っているとはさすがだ。

その点、同じメーカーでも高級車になると、きめ細かく配慮がされていて、他のメーカーに流れることはなさそうだ。
輸入車も200万円台でも中を覗けば、バランス良く作っている。10年前、うちの車に決める前に、Vサインで笑っている車を見せてもらったが、上品にまとめてあった。そのメーカーは本国では大衆車なのに、販売戦略がうまいようだ。何よりロゴが大事なのかもしれない。
そういえば、近所のお店で外車ばかり止まっているところがある。アウトレットの衣料品店なのだが客筋がよくて、最高級車や個性的できれいな外車ばかりで面白い。
お金があるから輸入車というのでもなく、内外のバランスが取れていて落ち着くのが魅力なんだろうな。

ところで、今回担当してくれた方は、車が大好きなおじさんで質問をすると何でも答えてくれたし、中古車市場の話も海外まで及んだ。
話が芋づる式に出てくる。
会話は弾むがそろそろ帰ろうかと、だんだん場所を移動するのだが、見に行った車は一番壁際を制していたので、横長の店舗中央まで距離がある。おまけに中古車に囲まれているのでその都度、おじさんの解説が入る。
車自体ではなく、その車体の需要が生まれる理由とか、その車種が中古車市場でどういう位置づけかとか社会現状を語ってくれる。興味は尽きないが、じりじりと我が家の車まで来たときは、さすがにほっとした。

「話し出すと止まらないもんで」とおじさんも苦笑しながら、名刺を渡してくれた。

「もっとクルマの話、しませんか」と書かれてあった。
もうお腹いっぱいです。

今日はここまで。



2013年1月28日月曜日

地味だけど狼狽させる


寒い。
この寒さが始まったのは25日の金曜日だったか、この日ある方のブログで日本の最低気温にまつわる話を拝見した。八甲田山とカメラのニコンの話で、リンク先には昔作られた「八甲田山」の映画もご紹介があった。私は艱難辛苦やヒューマニズムが苦手で映画のほうは見ないと思うが、雪中行軍は興味深かった。
その方のブログ*では車や高速道路のカテゴリーもあって、おかげさまでひとつ思い出したことというか納得がいったことがあるのだが、今日は別の車の話。

その金曜日のこと。我が家は車の買い換えを検討中で、ネットで車情報を見ていたときにセダンの車が目に入った。メチャクチャ普通の形が好ましい。我が家は地味で普通にきれいな形の車を探している。調べると、何と燃費がよい。昨年モデルチェンジをしてから評価が一変したようで、そこそこ褒めている。

有力候補にしている、とあるメーカーの「地味で普通だが燃費が悪い車」の問題が一挙に解決されたとばかりに、試乗の申し込みをした。こういうときはネットより電話のほうが早い。

日曜日に決まる。
出かける前に、本日の試乗車の情報を確認していると同じメーカーで見たこともない車が突然出てきた。セダンではないが、形は普通に綺麗だ。コストパフォーマンスもよい。
なのに不人気車みたいで、あまり情報も得られないまま、まずはお目当てのディーラーを訪ねた。
お客さんが多くて混雑していた。高速のサービスエリアのように見えた。
試乗車もまだ空いておらず、電話受付の担当者の代わりに別の営業の方がしばらく応対してくれた。
ざっと話のやりとりをして、これから乗る予定の車Aが、同じ会社のベストセラー車Bと北米市場では値段がほとんど変わらないと聞くが、日本ではAのほうがかなり高くなっている。どうして、こんなに差があるのか尋ねた。

すると、Bのほうはライバル社の価格と対抗するために低く抑えたらしい。今から徐々に高くなります、という答えであった。Bもすぐ近くに展示してあった。
そのBやら何やらはいかがですか、と営業マンから車種名が幾つか出てきたが、我が家には合わないので興味を持ったことはない。それよりも、ネットで直前に見つけたCの車の名を出してみた。
今まで「〜ですよねえ」と適当に相づちを打っていた営業マンが何故かそわそわしだした。同じメーカーだが販売網が違うせいだろうか。いや、違う販売網の車でも自社(自車)自賛ムードで、人生のステータスシンボル、またはステージシンボルである車を貶めたりはしていない。特に中高年の夫婦の前では。でも、我が家はそういうのに、関心はない。

「あれはいい車なんですがねえ」と営業マンは肯いたが、「高くなったはずですよ、確か」。
空気は否定的である。

はて、高くなったと言うが、価格は見てきた。でも、本当はオプションをバカのように付けさせる車なのかもしれず、「そうなんですか」と答えておく。
と、試乗車が空いたみたいで、電話受付の担当の方が来られた。見るからに疲れていた。誠実そうだが、試乗しても何も言わない。お愛想笑いもしない。仕方がないのでこちらが話してみるが、会話も打たせて取るタイプでもないようで無口だ。
会社が繁盛するということも、人には厳しいものだ。

さて、肝腎の車は、実物を見ると外見は失望程度だったが、聞きしに勝る(ネットで読んだ)以上に、内装にがっくりだった。
昭和の香りがするとあったが、本当であった。質素とチープは違う。この値段でこの車はないだろう。
でも、燃費が魅力的な長所だと話しておいて、ついでに「内装のこの部分、変えたほうがいいですよ」と言っておいた。
改めてこの担当者にも候補車を聞かれたので、Cの名前を出してみた。すると、初めて表情が変わった。やはり、「高くなったんじゃないですかねえ」と同じことを言う。

もうAの車とディーラーには用はなくなったのだが、恒例のトイレの話。
先週見に行ったところと同じく、お花畑だ。飾り立てている。手を洗うカウンターには、ラッピングされたジャムのような瓶がいくつか置いてあった。

ここからの帰り道、犬も歩けば棒に当たる(この場合はラッキーな意味合い)で、ちょうど別の販売網があったので寄ってみた。確かそこでCの車を取り扱っていたはずである。
大変愛想の良い若い営業マンが出てきてくれた。単刀直入にCの車はある?と聞くと、困ったような顔をされた。
その店には展示車はないし、置いている店をすぐには答えられない、分かりませんということだった。お手間は取らせたくなかったので、家で調べるからいいと断って、カタログは一応置いてあったのでもらった。
ちょっと質問をしてみたら、「嘘ついても仕方ないんで、正直に言いましょう」。
あまり正直が似合わないような人なのだが、ご自分に損なことはしない人みたいで、
「これは、あまりご要望のない、つまり売れていない車で、今まで1台だけ、出たことがあります。
一気買い(一騎買い?)というか、もうその車だけ目当てで来られて」。

電話一本の注文だったらしい。
もらったカタログは、このメーカーにしてはこれまた質素で、好感が持てた。
こうしてますます興味が湧いたので、帰宅後、すぐに試乗車がどこにあるか調べた。市内ではあるが中心部からは遠い。電話をしたら、若い男性が出てきたが、Cの名前を出すと、慌てだした。

試乗車はあるが次の土日もどうのこうのと、思いっきりあやふやに話すので、こちらは思いっきり何か不都合なことを想像してあげたが、まあいい。
2月の半ばまでは急ぎませんよと伝えると、少し落ち着いたようで、確認しますと言ってかなり待たされた。女性社員に変わった。テキパキとしている。半月先くらいに、メールではなく電話で予約しなおすということで、話がまとまった。

Cの車はごく普通の地味な感じの車である。
ただ、そのメーカーでは妙に隅に追いやられているようだ。その隅を突くと、売り手側が嫌がるようなのが可笑しい。それは買い手にとっていいことかもしれない。だけど、積極的に買いたいというほどではない。最後の手段、逃げ道というくらいかな。

値段のことだが、マイナーチェンジでグレードが上のものが発売されて、それのことを高い高いと言っていたようなのだが、試乗したAのほうが、断然高い。
この上のグレードというのに乗るつもりはないけれど、カタログで内装をよーく見ると、Aの車と同じようなパネルが貼られている気がする。何だか嫌な予感がする。

でも、見に行くつもり。よろしく。



「短足おじさんの思いつ記」ブログさん  「1月25日に起こったこと」




2013年1月23日水曜日

人でもモノでもなく場所で買いたくなるとき

誰もが考えることだろうが、日銀のしらかわ総裁、後任が後白川だったら嫌だなあ。

ところで先日、久しぶりに、夫と車の試乗に出かけた。うちの車は古いので、買い替えの準備をしておかないといけない。

家を出る前にディーラーのアクセスマップを確認し、勝手知ったる市内なのですぐ分かるだろうと思っていたのだが、最初通ったときは分からなかった。看板やショールームらしき空間が見あたらないのである。

無いというと、うちの車にはナビが無い。
10年以上前に購入したとき、ナビは要らないと私が強固に主張した。それまで知らないところでも大都市でも、地図だけで平気だったので不要に思えた。何と言ってもあの画面が好きではない。

だが、この日ばかりは、「ナビがあればね」と口から出そうになった。

新しい車でもナビをつけるつもりがなくて、iPadなどで代用したいと思っているから、必死でこらえた。
なのに、そのiPadやモデム類を持ってきていないし、携帯電話も最小限機能の携帯で、地図は出せない。少々焦ったが、ショールームは無事見つかった。反対方向から行くと、看板が見えた。

着くと、営業の方がすぐ応対に出てきてくれたのが嬉しかった。うちのは古くてヨレっとした車なので、行く先々で、あまり相手をしてくれないのではないかと心配する。予約はしていなかったが、タイミングよく試乗できた。お目当ての車は割と重厚な車で、だんだん候補の車が大きくなってくる。あくまで、大衆車セグメント。


後部座席が広いのはいいが、全体に大きめの服を着ているような少しダボッとした印象を受ける。

一回り小さいスポーツタイプの車も見せてもらった。ジャストフィットというよりタイトかな。もう少し余裕が欲しいし、しおれかけの中高年の私達夫婦がセットで乗り降りすると、雰囲気が合わなくて車には気の毒な感じがする。

接客してくれた方は、大変感じがよくて、またメーカー自体も他と比べたら馴染みがあるほうなので、話がしやすかった。私のきょうだいが(赴任して)いる県で生産しているから、好調ぶりを聞いたことがある。


それにしても、ここ2年近く、ディーラーを数カ所回って営業の方とお話をしたが、みんな個性もそれぞれながら好感が持て、どの人からも買ってあげたいと思った。

このたび担当してくれた方は知性派という感じ。今はお若いが、数年経てばもっとそのメーカー車にぴったりなことだろう。今でも、十分だけれど。

ところで、私はたいした用もないのに、トイレを借りた。前に「アルミのゴミ箱」(10/1)というタイトルで、うちの車のディーラーでトイレに行った話を書いたが、やはり誘われるようにトイレに行ってしまった。
入ってみると驚いた。普通にしていたら普通のトイレなのに、個室に小さなキャビネットがあって、おもてなしめいたグッズがあれもこれもと飾ったり置かれていた。

うううう。一体変ちくりんなお皿の上に何を置いているのだろうか。アロマキャンドルかな。火気厳禁だから違うよね。小さなバスケットやら仰々しそうなものとか、手作り作品コーナーに来たみたいだ。

ここが広島本社のショールーム(のトイレ)だとは思えない、このがっくり感。

その点、うちの車のディーラー(のトイレ)は、よかった。

あの、何ともない普通の感じ、がいい。
でも悲しいかな、あそこは土日でもお客さんがほとんどいない。
その点、このメーカーさんは、次から次へとお客さんが来ていて活気がある。働いている方が幸せそうだ。一昨年寄った、車は売れているけれど、キツキツした感じだったところとも違う。

ふと、車より点検や故障したときにお世話になる店のことを考えてみる。うちの車のディーラーは、車が売れていないから、社員の方々はお元気がないけれど、
こうしてあちこち回ってみると、やっぱりあそこが一番いい。

と夫に話すと、

車にはトイレは積めないよ、と言われた。
別にトイレがいいわけではない、ただ、あの何でもない感じが好きなだけだ。そうそう、素っ気ないようでも、妙に雑誌類が充実していて、よそでは見かけないちょっと贅沢な感じがいいのだが、もうコスト削減で置いていないかもしれない。HPも趣味が悪くなっていた。

それにしても貧乏人には選択肢がない。お金持ちは自由に好きな車を買っている。失敗したら、買い直せばよいのだ。お金があるって何と自由なことだろう。


*現代ビジネス ポール・グルーグマンの「高所得者増税」論文を全面公開

「金持ちには応分の負担を、そして労働者には適切な賃金を」

*「中銀は選挙で選ばれた議会に服従させられるべき」  今日の覚書様



2013年1月21日月曜日

話がよく分からなくても面白いことと、よく分かって驚いたこと。

今日は、お天気が悪くなったが、嬉しいニュースがあった。
経団連が昨年末、春闘の方針案に「定期昇給の見直しを聖域にすべきではない」と盛り込んでいたのに、その文言を取り消したようである(1/18)。

私は、景気回復に水を差す経団連に腹が立っていた。いつも同じことを繰り返すようだが、可処分所得が減る一方で、生活は苦しい。給与が上がらなければ、何も買えないのだから、景気はよくならない。
経団連は、景気が回復しなければ安倍政権のせいにするのだろう。

さて、安倍内閣が誕生するまで、私は全然存じませんでしたが、浜田宏一先生はいいな。
きっとファンを増やしていらっしゃるだろう。

それより、デフレ大魔王のしらかわさんが、まだ総裁をやっていらっしゃることに驚いたが、浜田先生の教え子とは驚いた。みんなによく読まれている記事だけど、備忘録で。

現代ビジネス 浜田宏一「教え子だった白川方明日銀総裁はどこで道を誤ったのか」

ダイヤモンドオンライン 浜田宏一・内閣官房参与 確信インタビュー「アベノミクスがもたらす金融政策の大転換 インフレ目標と日銀法改正で日本経済を取り戻す」


「C先生のworld view」ブログのリンク先、「市況かぶ全力2階建」さん記事も面白い。
NHKの討論番組で浜田宏一先生が「野口悠紀夫先生は時代遅れ」と正面から叩き切りになられる



ところで、昨日は全国都道府県対抗男子駅伝があった。第2区で区間新記録を取った中学生(地元広島)が、インタビューされているのをたまたま聞いた。
何と素晴らしい受け答えだろうか。スポーツ選手は体だけでなく頭もよく回り、淀みなく感想や考えを話せる人が多く、いつも驚くのだが、まだ中学生なのに、過剰な敬語遣いもなく、自分のレース分析や後続ランナーへの期待を冷静に話していた。
細かい内容は覚えていない。ただ、非常にしっかりしていたので恐れ入った。

インタビューでは聞き手が、何度も内容がかぶるような質問の仕方をすることがよくあり、質問されている人が気の毒だと、呆れることが多い。今回そういうかぶりがあまりなかったとはいえ、その中学生の答え方はきれいだった。


*こんなブログに名前が出たら気の毒かもしれないと思って、お名前は出しませんでした。






2013年1月18日金曜日

少しずつ片付ける

今週は何となく、そわそわして気になることが多い。

でも、それらはみんな省略。

さて、前回子どものことを書いたが、諸星大二郎のコミックで、ある少年の話があった。得体の知れない塊のような生き物を河原で拾ってきてこっそりと食事を与えていたら、その生き物もいつのまにか両親とともに食卓を囲むようになった。
グフグフとしか言わない気持ちの悪い塊なのに、両親は知らない顔をしている。

とここまで書いて、検索してみたら「子どもの遊び」というタイトルで、主人公は子どもではなくお父さんのほうだった。子どもが物置に隠して遊んでいる奇妙な生き物を見つけて、お父さんは箱に入れ、自転車に積んで捨てに行きかけたのだった。すると、箱の中からその生き物がお父さんに呼びかけるのである。

うわあ、いっきょに諸星さんの絵が思い浮かんでくる。
それはさておき、私のストーリーの思い出し方は、お父さん目線ではなく、子どもの立場からだった。これは、何か格好の分析対象になるかもしれないが、その奇妙な生き物のこと。
すっかり家の中に居着いてだんだんと人間の形をしてくるようになる。お父さんはそんな生き物が町のあちこちで見かけられるのに気がつく。隣の家にもいた。やがて、奇妙な生き物の代わりに息子のタケシ君はいつのまにか消えていなくなっている*。


この気持ちの悪い漫画をうちの子どもも読んだ。
それから何年後か、子どもは高校のバザーにそのコミックを出していた。古くて汚かったが売れたようだ。


ということで、我が家ではときどき、親子で互いに探りを入れて「いつもと違う気がする、どこかで入れ替わったのじゃないよね」と確かめることがある。平和な一家である。
これが子どもを怒ったり心配したりしているときは、もちろん我が子と信じて疑うことはない。
だけど、本当のところ、どうだろうか。私も昨日の自分とは似て非なるものかもしれないし、同じかもしれない。まあ、そりゃ、違っているだろうけれど。

話が脱線しそうなので、今日はここまで。
そわそわしている理由の一つは、今、あちこち片付けているのだった。モノが少ないので散らかってはいないが、昨年は丁寧な掃除をあまりしていないから、家の空気がどんよりとしている。
大陸からの黄砂や大気汚染物質も酷いけれど。

ついでに全然関係ないが、ギリシアでプラトンゆかりのオリーブの木が持ち去られたらしい。冬の燃料目的か、ということらしい(47ニュース)
ギリシアといえば、財政危機よりも怖いのが不法移民だと昨年、ニュース記事を読んだのが印象的だった。



*あらすじは、「第4話・タケシを狂わせろ」さんで。




2013年1月14日月曜日

まずは無事で元気に

祝成人式、といっても私は自分の成人式には、全く興味がなかった。
夫もそうだったらしい。

それで、子どもの成人式も無頓着でいたのだが、そういえばあれもこれも無頓着だったと思い出す。親バカで子どもは可愛いくても、世間の行事には疎かった。ぼうっとしている間に、いくつものイベントを見逃した。知っていても体が反応しないこともあった。我が子ながら少々気の毒だなと思う。


そしてまた最近、子どもと同世代くらいの若い子たちとすれ違うと、我が子はれっきとした平成生まれなのに、どうして顔の目鼻立ちが昭和なのだろうかと、これまた気の毒に思う。


ただ、子どもが元気に過ごしているようなのが有り難い。

ところで、連休の夜、ネットで「童話の怖い裏話」というのを読んでみた。怖くはなかった。というのも、私が子どもの頃に読んだグリム童話などは、子ども向けに配慮という名目で書き替えられることがなかった。原作に近いと思われる厳しい仕打ちや酷い結末が、何事もない感じでさらさらと書かれていた。
それより、昔の翻訳ものは日本語として意味が分かりにくい文があったり、天国を極楽、教会を寺と言い回していたり、不思議な文章や言葉遣いが多くて、読み返すと驚く。

話は戻って、その怖い裏話の文中リンク先に、世界の民話を紹介されているサイト「円環伝承」さん(top)
があって非常に面白かった。
<取り換え子(原文ママ)>(チェンジリング)にまつわる話で、ロシアの民間治療「子どもの焼き直し」、これは怖かった。いわゆるオソロシヤだ。

円環伝承さんがこの項で最後にご紹介されていた、
シベリア ウデヘ族の民話「一人のムルグンが暮らしていた」の若者。
円環伝承さんの解説に何故か吹き出してしまった。若者は途中で出会う敵や老婆などを信用せず、容赦なくやっつけて、援助の申し出を与太話扱いをする。物語の中での現実的な行動が、かえって面白い。




イーストウッド監督の
ご存知「Changeling」2008年



これは胸打たれた映画ですが、
もう一回見る勇気はありません。





晴れ晴れとしてくる、きれいな曲


雨も上がり、よく晴れている。日差しが眩しいくらいだ。

昨年から練習をしているハイドンのHob.XVI:20の第2楽章、綺麗に弾けるようになりたいと思う。今年の年末くらいには、何とかなっているだろう。



Haydn
Hob.XVI:20-Ⅱ