2012年4月28日土曜日

釘煮


桜が咲いていた頃に作った
いかなごの釘煮





淡路の方から教わりました。
イカナゴの素干しを使い、
釘のように硬めに仕上がります。

よく出回っているのは、
小さくてやわらかな神戸風?がほとんどですが、
淡路風は違った食感で大変美味しいです。
冷凍も出来ます。

胡麻を振る前に撮ってしまいました。
もう一品は
わけぎとエリンギのぬた




2012年4月26日木曜日

ソルベ



果実酒でシャーベット


いつもは梅酒で作ります。

子どもが友達からユズをもらい、
ユズ酒を作っていました。
デフレ世代の子どもたちは、一人であれこれ作るようです。

ユズは苦手でスダチが好きですが、
ユズ酒のシャーベットは美味しいです。


備忘録

<100円ライターをリサイクルしてバイク模型>
可愛い。


以下二つは、TさんならぬC先生のブログでご紹介されていた記事から


<記録的な干魃、欧州農業を襲う>(Sankei Biz.4.23)
一昨年、世界の小麦価格はロシアやウクライナの干ばつにより高騰し、日本のスーパーでも薄力粉や強力粉の値段がぐんと上がった。そのまま下がることはなかったので、ずっと不足したままなのかと思っていたら、昨年は世界の収穫量が最高記録で、価格も少し下落していたらしい。円高だったのに、何故小売りは下がらなかったのだろう。オーストラリアはどうだったのだろう。原油価格は上昇したままだったからかな。後で調べよう。

我が家はパンや麺類、お好み焼きにたこ焼きを作ってよく食べるので、気にかかる。もちろん、お米もよく食べる。


それはともかく、イギリス、スペインでは干魃が問題になっているそうだ。我が家にテレビがあったころ、何かの番組で見たスペインは既に国土全体がどんどん干上がっていく感じだった。


食糧不足は怖い。イギリスや欧州にも雨が適量に降って欲しいが、去年、日本では5月によく雨が降って、作物の植え付けや成長に影響していたのを覚えている。


次も植物のこと。「ただ人間が植物に触るだけで」、その植物の防衛力がアップし、農薬不要で成長させられるかもという話題。
<驚異の植物の防衛力アップ法>(in Deepさん 4.23)




ところで、先日レナード・コーエンの「Sisters of Mercy」によせて書いていたことと関連して、いや別に関連していないけれど、「アメリカ大統領のシークレットサービス12人が首脳会議開催地国先のホテルで娼婦を雇って?どんちゃん騒ぎをした」というニュースがあったらしい。
これは、他国の問題なので批判したり感想を述べたりするつもりはない。そんなことをすれば、きっと余計なお世話だと言われる。
でも、アメリカには地球を守ってもらうようになるかもしれない。
まあ、警備のほう、いろいろとよろしくお願い致します。さて、代わりに何をすればよいのだろう。何も出来ない。







2012年4月21日土曜日

人形家(にんぎょうけ)



前回に書いた記事を読み返すと、こんな面倒くさい奴の家には、誰もお客に来てくれないだろう、当然だと思う。
それに、人形劇をやっている人はどうたらこうたら、と感じ悪く書いてしまったが、私は人形劇は好きだし、大体私自身も人形のおままごとのような生活をしている。



中身がない空っぽのうさぎ




人形家のほうが立派だったりする


もう、こんな若い人いませんし、
髪も黒かったのが白くなりつつ。


産経新聞のことも後味悪く書いたので、
田村秀夫(産経新聞特別記者)さんの記事
正式タイトルとは違います。




2012年4月16日月曜日

集うのに慣れていないけれど

数年前から、産経新聞を取っている。広告が入らなくてマイナーな新聞ということで、購読を始めた。
でも、配達してくれるのは地方紙の新聞販売所で、産経新聞は地方では購読者数が少ないということで委託しているそうだ。


その産経新聞で、久田恵さん(Wiki.jp)というノンフィクションライターが、生活欄で『家族がいてもいなくても』というタイトルで連載をしている。久田さんは著書もたくさんあるようなのに、私はどれひとつとして読んだことがない。その上、私は新聞もあまり読まなくて、久田さんの連載も気がつけば読む程度である。


なので記憶が間違っているかもしれないが、連載によると、久田さんは、ご実家でお母様を介護して看取ったあと実家をリフォームし、地域開放型のフリースペース兼、ご自身が主催する人形劇団の練習スペースを作った。でも、すぐにその家を長男夫婦に譲り、今はワンルームマンションで一人暮らしをして、元実家だが現在は長男宅のフリースペースに通う生活らしい。


久田さんは、「おひとりさま」として気楽に仕事をし生活をしていて、私も家族とは別行動でも平気なほうなので、共感を覚えることが多い一方で、人形劇団の練習スペースとか、地域の人たちに自宅を開放するなんて、面倒なことをよくやるなあ、と思っていた。
人がいつも集まってくるなんて、落ち着かないし、想像しただけでも疲れてしまう。偏見に満ちたことを言って申し訳ないが、人形劇団なんて、しょっちゅう集まってワイワイしていそうで、パフォーマンス自体も苦手だと見る前から感じてしまう。


ところが、2月4日の記事で久田さんが、人形劇団の人たちって、気まぐれで、劇団関係の手仕事のある日でも誰一人として現れなくて殺風景な部屋にぽつねんと一人でいる日がある、と書いてあったので、驚いてしまった。一人で料理を作っていたら、ふらっと誰かが思いがけず、寄ってくれることもあるらしい。


へええ、みんな自由なんだ。好き勝手に生きているんだ。
自由でなかったのは、偏見に満ちた私だったんだ。


ここ長い間、気の合う人たちと集まることが滅多になくなって、性格がいじけてきているのだろうか。集う人たちへの僻みとか偏見とかがマックスになっていたのかもしれない。


私は、来客を面倒に思うような年になったと言うことがあるが、お客さんが来てくれると嬉しいし、一緒に食べたり飲んだりしていると、それはそれは楽しいのである。
また、大勢集まるところは疲れるなんて言っている癖に、私も呼んでもらえれば、いそいそと行ってしまうだろう。きっと帰らぬ客で迷惑を掛けるに違いない。


この時期、集まるといえばお花見だが、今年も、お花見に行かなかった。それはそれで寂しくもなく、私の幸せには変わりなかったのだけれど、むかし近所の山に登ったお花見を思い出す。本当に楽しい思い出である。




ところで、産経新聞のことだが、増税が決まったら購読を止めるつもりでいる。今でも、家人が読むので、仕方なく取っているだけである。
不景気の中の増税って、もう息も出来なくなりそうである。呼吸するにも税を取られそう。


別にいい曲ではないのですが、息抜きによいかと思い、
Marisa Monteの短い曲
「Statue of Liberty」(1:14)を探しましたが
無かったので
また探しておきます。





2012年4月13日金曜日

ねじれていく

アルゼンチンのメルセデス・ソーサ(Mercedes Sosa)が、チリのヴィオレッタ・パラの曲「Volver a Los 17」(17歳に返る)を歌っています。
この曲は聞いたときから大好きで、特にメルセデス・ソーサにミルトン・ナシメントが加わったデュエットが、素晴らしいです。
でも、歌の意味を知りませんでした。


タイトルからして「17歳に戻れたら」というような感傷的な歌かと思っていたのですが、どうやら違っていたようです。もっと哲学めいた感じ。下に家人が訳したものを丸写ししてあります(動画も同じ)。
ところが、検索していますと、山福朱実さんというかたが、訳詞と解説を載せてくださっていました。この歌はヴィオレッタ・パラが40代の時に若い男性と恋に落ちたときに作った曲だそうで、やっぱりぃと思いましたが、それ以上の内容があると思います。
検索すると、いろいろ解釈の違う訳が出てくるようで、この詩はなんと面白く、美しいのでしょう。メロディーも繰り返し聞いても飽きません。



わたしは、ねじれることもなく、からまることもない人生を送っています。何か工夫が必要ですね。



追記

最初「enredando」を家人は「ねじれていく」と訳していました。それで、この記事のタイトルを「ねじれていく」にしていました。
でも、「よじれていく」ではないか、と家人は訳を改めました。まあ、今さら記事のタイトルを変更しにくく、そのタイトルも適当につけてしまってものだったので、当分このままで。




Mercedes Sosa
「Volver a los 17」
Mercedes Sosa e Milton Nascimento



Volver a los 17
(十七歳に返る)


Volver a los diecisiete despues de vivir un siglo
一世紀生きた後、十七歳に返る
es como decifrar signos sin ser sabio competente
ものが分かる賢人でもないのに記された言葉を解くようなものだ
volver a ser de repente tan fragil como un segundo
一秒ほどの儚い悔悟を繰り返す
volver a sentir profundo como un nino frente a Dios,
神を前にしたこどものようにまた反省する
eso es lo que siento yo en este instante fecundo
この有意義な瞬間にわたしが座っているのはそのため

Se va enredando enredando, como en el muro la hiedra
お前はよじり、よじれていく、壁を這うツタのように
y va brotando, brotando como el musguito en la piedra
そしてお前は芽を出す、芽を出す、石に付いた苔のよう
como el musguito en la piedra, ay si, si, si
石に付いた苔のよう、そうだそうだ

Mi paso retrocedido, cuando el de ustedes avanza
お前が前に踏み出すと、わたしの足は後ろに退く
el arco de las alianzas ha penetrado en mi nido
結びのアーチをお前はわたしの巣に差し込んだ
con todo su colorido se ha paseado por mis venas
あらゆる色とともにお前はわたしの血管に入った
y hasta la dura cadena con que nos ata el destino
そしてわたしたちの運命を鎖で繋いだ
es como un dia bendecido que alumbra mi alma serena
祝福の日のようにわたしの静かだった魂に灯りを点した

Se va enredando enredando, como en el muro la hiedra
お前はよじり、よじれていく、壁を這うツタのように
y va brotando, brotando como el musguito en la piedra
そしてお前は芽を出す、芽を出す、石に付いた苔のよう
como el musguito en la piedra, ay si, si, si
石に付いた苔のよう、そうだそうだ

Lo que puede el sentimento no lo ha podido el saber,
感覚はそれを知ることなどできない
ni el mas claro proceder ni el mas ancho pensamiento
研ぎ澄まされていくこともなく、考えが広くなることもない
todo lo cambia el momento colmado condescendiente,
その瞬間、お前は完全に見下していた態度をがらっと変える
nos aleja dulcemente de rencores y violencias
わたしたちを苦しみと暴力からやさしく救う
solo el amor con su ciencia nos vuelve tan inocentes
沈黙とともにある愛がわたしたちを無垢な状態に連れもどす

Se va enredando enredando, como en el muro la hiedra
お前はよじり、よじれていく、壁を這うツタのように
y va brotando, brotando como el musguito en la piedra
そしてお前は芽を出す、芽を出す、石に付いた苔のよう
como el musguito en la piedra, ay si, si, si
石に付いた苔のよう、そうだそうだ

El amor es tordellino de pureza original
愛は生まれ持った清らかさの竜巻
hasta el feroz animal susurra su dulce trino,
どう猛な獣が甘い言葉をささやく
retiene a los peregrinos, libera a los prisioneros,
巡礼者を引き留め、囚人を解き放ちなさい
el amor con sus esmeros, al viejo lo vuelve nino
情けとともにある愛、それは老いた者をこどもに返す
y al malo solo el carino lo vuelve puro y sincero
そして愛だけが悪しき者を純真で誠実にかえらせる


Se va enredando enredando, como en el muro la hiedra
お前はよじり、よじれていく、壁を這うツタのように
y va brotando, brotando como el musguito en la piedra
そしてお前は芽を出す、芽を出す、石に付いた苔のよう
como el musguito en la piedra, ay si, si, si
石に付いた苔のように、そうだそうだ

De par en par la ventana se abrio como por encanto
魔法をかけるためのように窓を大きく開いた
entro el amor con su manto como una tibia manana
お前のマントとともに愛が入ってくる、けだるい朝のように
y al son de su bella diana hizo brotar el jazmin,
お前の美しい目覚めの音がジャスミンを育てる
volando qual serafin al cielo le puso a retes
天使が空を飛び、
y mis anos en diecisiete los convirtio el querubin
そして17の年に天使は彼らを改宗させた


Se va enredando enredando, como en el muro la hiedra
お前はよじり、よじれていく、壁を這うツタのように
y va brotando, brotando como el musguito en la piedra
そしてお前は芽を出す、芽を出す、石に付いた苔のよう
como el musguito en la piedra, ay si, si, si
石に付いた苔のよう、そうだそうだ





もうひとつ動画
メルセデス・ソーサが
カエターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタ、
シコ・ブアルキ、ミルトン・ナシメントとともに
(1986年)








2012年4月10日火曜日

足りている人

昔、ある人の本で、中学高校時代を振り返り、美貌の同級生について少し触れていた。大変な美男美女の家系に生まれているので、自分が美人であることに気がつかなかった、という話だった。その数行しか覚えていない。


美人であることに気がつかないというのも鈍感過ぎやしないかと思うが、桁外れの美貌になると、周囲には、いちいち「綺麗だね」という人もいなかったのだろうか。第一、家族から言われないのだし。
こういう美人は、しょっちゅう鏡を見ては自分は綺麗か否か、前より美しくなったかと確かめる必要がない。十分、美は足りている。たぶんこれは、お金持ちが通帳を覗き込んでお金がいくらあるか心配しなくていいのと同じなのだろう。
また、年を取っても、身近な先輩であるお母さん、お祖母さんが上手に年を重ねてきれいであれば、容貌の衰えを気に病むことがない。
美人薄命という周囲のやっかみも混じった運命の圧力とも、こういう人は無縁なのではないかなと思う。

その人は、自分だけではなく、他人の容貌も気にならなかったのではないだろうか。自分も他人も、そのままに見ている、つまり顔にファッションチェックを入れないというか、判断基準の概念もないのだろう。
反対に、鏡をしょっちゅう見ずにいられない人というのは、自分に美が足りないと思って気になっている。過剰なところは不足と同じで美を損なう。その人にとって、まだ美が足りていないところに何かを足してバランスを整えて、美人になる。
でも、そうやって美人になれるのは羨ましい。


そういう美人やお金持ちの、十分足りて何も気にならない心境を一度でもいいから体感してみたいと思っている。だけど、自分はつまらない人間だと思っていても、四六時中そればかり思っていないし、そういうことで思い悩んだとしても、一瞬一瞬途切れなく悩み続けることはできない。空腹を感じたり、眠気を感じたりいろいろ気持ちは忙しい。平常は美人やお金持ちとは何も変わらないのかもしれない。


だけど、美人は周囲の気を高揚させるし、お金持ちは陰でお金を回している。見えない運動量が違うのかもしれない。
何か運動しようかなあ。春だし。



2012年4月7日土曜日

家具屋さんで



今日は家具屋さんに寄ってきました。


籐の椅子



籐の丸テーブル
ガラスの天板に空が映り込みます。





2012年4月4日水曜日

真似してすみません

春という季節は、人にプレッシャーをかけまくるは寒くて嵐を呼ぶは結構好き勝手なことをしているのに、日が長くなっていく安心感からか疎んぜられることはあまりない。晴れると一挙にのどかな感じになる。でも、昨日は息も出来ないくらい風が強く吹き荒れた。


さて、私の人生のネタ元は、T先生のブログにあり、映画のネタ元はBさんブログにある(両者はリンクされている)。でも、この二つを親しい人たちに勧めても閲覧して大丈夫なものか困ってしまうようで、確かにご紹介しにくいものがある。


そのBさんブログで、スザンナ・ホフスの記事があった。スザンナ・ホフスは、1959年1月17日生まれ、現在53歳だが、スザンナの50歳を超えているとは思えぬ画像が格好良すぎ。





(wiki.2008年だそうです)


(wiki.こちらは2010年)

私はスザンナ・ホフス、そしてスザンナがリードボーカルを務めたバングルスのファンではなかったが、80年代、ラジオから流れてくるとそこそこ嬉しくて好きだった。でも、「Walk Like an Egyptian」ともう一曲くらいかな。


その「Walk Like an Egyptian」をYouTubeで探したことがある。ヒットしていた当時はあまり好きではなかった「Eternal Frame」を聞くと、懐かしいとか、当時の記憶にずぶっと心を突っ込むとか、そんなものではなくて、何だか心が揺さぶられた。


それからまた時間が経ってしまったが、今回、Bさんの記事にアップされていた写真と動画を見て、スザンナ・ホフスに魂を奪われた。聞くだけならどうも思わないのだろうけど、ビジュアルを見ると、格好いい。優雅で力が抜けていて、キュートでクール。


検索してみると、「mm(ミリメートル)さん」というかたも、2010年10月31日に「スザンナ・ホフスーー奇跡の51歳」というタイトルで、スザンナの魅力について書かれていた。




Bさん、mmさんの真似をして、スザンナ・ホフスの記事をアップしよう。
格好いいというのは、本当に凄いこと。スザンナ・ホフスが容貌が若いままで時間をストップさせていることが重要ではない。年相応に老けていたとしてもきっと格好いい人だと思う。バングルスの他のメンバーも歳月を経てもいい感じではないか。格好いいということは、見る人を惹きつけ、見ている人の時間もストップさせてしまう力があるということだと思う。




The Bangles 
「Eternal Flame」
51歳の頃らしいです。






「Walk Like an Egyptian」
80年代



今さらながら、T先生のイニシャルってCの間違いでした。