2012年1月31日火曜日

スカルラッティ2

スカルラッティの続き。K32ではないのだが。
昨年、夏の終わりにハイドンを検索していたときに、2011年5月に第13回ルービンシュタイン国際コンクール、続いて6月には第14回チャイコフスキーコンクールで優勝したロシア人のトリフォノフ氏が出てきた。


予選で弾いたスカルラッティL.108(K.213)が大変素晴らしかったらしい。


私もK213はよく聞いていた。ジョン・ウィリアムスのギター曲もあって、ギターはパソコンで聞くには少し無理があるのか、「お腹がいっぱい」な気がしてくる。スピーカーから出して、何気なく聞いている方がいいように思う。


ともあれ、昨年秋、スカルラッティのことや二つのコンクールの詳細がとても興味深くて、トリフォノフ氏を検索してみた。「天漢日乗」さんのサイトがあった。


その「天漢日乗」さんの1月15日の最初の記事に「Daniil TrifonovValery Gergiev指揮ウィーンフィルライヴ(放送中)」があり、Trifonov氏がアンコールでムソルグスキーの「Hopak」 from Sorochintsy Fairを弾いている動画を添えられていた。天漢日乗さんと重複するが、




この曲は、Tom Waitsの「Russian dance」(当ブログで2011年12月10日)の関連動画で出てきたときに知ったので、何だか嬉しかった。Hopakゴパークは、本家ウクライナのコサックダンス(wikipedia)で、結構楽しいと思うのだが、農民舞踊なので泥臭い。こういう曲を人前で弾いて格好良くさまになるのは羨ましい。


このゴパークについては、「休八ホームページ 「展覧会の絵の中の展覧会」さん」内の研究室「歌劇『ソローチンツィの市』」4にご説明があり、ゲルギエフとウィーンフィルのCDもご紹介されていた。
休八さんは、フィンランドのミュージックグループ「ヴァルティナ」のファンだそうで、検索してよかったと思った。私は「ヴァルティナ(ヴェルティナ)」では、一曲お気に入りがある、と書いていて確かめたら別の北欧グループだった。北欧には三つくらいグループがあって、私はすぐ混同してしまうのだが、YouTubeにもアップされていてライヴなど楽しそうである。


コサックダンスに話は戻って、この1月は古い映画「知らなさすぎた男」(1997年)をかなりざっと見ていて、最後のコサックダンスで大笑いした。今年一番というくらい笑った。息抜き映画だというのに、恥ずかしながら息ができないほど笑った。だけど、こうしてアップする段になると恥ずかしい。お勧めではありません、笑いませんでした、と真顔で白を切りたくなる。


1:30あたりから始まります。





今回は、読まれている方がみんながっくりして、みんなちょっと気を悪くするような、話の結末になってしまったように思える。

2012年1月28日土曜日

雲の話。


灰色の雲というと、リストになるのだろうけれど、
→wikipedia
→解説と演奏動画


ブラジルのカエターノ・ヴェローゾとスペインのマリア・ドロレス・プラデーラのデュエットに、「Nube Gris 灰色の雲」という大好きな曲がある。
歌詞の意味は別にして、大御所のマリア・ドロレス・プラデーラの豊かな声と、カエターノの繊細な声が交互に織りなす華やかで明るい曲。デザートに出てくる濃厚なプチガトーみたいで、好きな曲を数曲まとめたとき、終わりに持ってくるのにちょうどよくて、とある友人にも押しつけて聞いてもらった。カエターノの「ラメント・ボリンカーノ」を訳詞付きで紹介したときの友人なのだが、その友人には押しつけるばかりで申し訳なく思う。受け取ってはみたものの何となく分けが分からなくて返答しにくいものや、途中で尻切れトンボで終わってしまうようなものを、私は押しつけてしまうようだ。このブログのような。


Caetano Veloso e Maria Dolores Pradera 

Nube Gris



上の画像をクリックすると、
動画と歌詞付きのサイトが開きます。
 
Fabrizio De Andreのアルバムに「Le Nuvole 雲」があります。

2012年1月27日金曜日

山の雪

先日の水曜日は午前中、雪が少しぱらついた。それでも、薄曇り程度には晴れて、寒い寒いといっても昼間はのんびりと明るかった。
出先からいったん帰って来て一休みし、夕方、日が暮れる前にと街のほうに買い物に出た。西の空が明るく、夕焼けで海の方はオレンジ色に輝いている。海の方といっても海は見えない。ただ、市内には川が何本も流れていて、私は下流のほうに住んでいるので、橋まで来て川縁を見渡し、橋を渡りながら川を目で追っていくと、すぐそこに海があり、西へ湾曲する地形に沿って広がっていくのが見える気がする


北の方は、暗かった。重い灰色の雲が重量感を増して、難しげに空を覆っていた。山の方は雪が降っているだろう。橋を渡るとオレンジ色も濃い灰色の雲も左右に並ぶビルに隠れて見えなくなった。


買い物をすませて店の外へ出たら、雪が降り出していた。白い粉雪ではなく、少しぽちゃっと降ってくる。帰りは別の道を通る。街中の小さな交差点から始まる狭い通りは最初はシルバーグレーだが、段々ぼやけた薄鼠色に変わっていって、四方に開けた大きな通りに出る。まだ西日が残っていて、ビルやマンションのガラスに反射していた。帰りの橋で西のほうを見やると、空は明るくひとかけらの青い空さえ見えた。だが、雪は舞い、山の方はというと、その暗い雲を見るまでもなく、雪で覆われた灰色の山の景色が絶えず浮かんでくる。往きの道からずっとそればかりを思っていた。


それは友人が撮った写真で、彼女の携帯HPの表紙にしている。一つ前の写真も雪景色だったが、今のもまた一段と寒々しく厳しそうである。山の冬は早くて、友人はもうずっとその雪を見てきたのだろう。週末、帰省する度に。


頭はクールで、情に厚く、気骨のある、その友達のことは、また。
結局、お天気の話ばかりでごめんなさい。

2012年1月26日木曜日

「やきものいこま」さん

下の記事の長い追記。
数年前より、たぶん原材料費が高くなっているのを考えても、ギャラリーで販売される若手作家、人気作家の器って少々高いなあ、と思う。


食器は、雑貨・インテリアショップ、セレクトショップに無印などあちこちで扱っているのを見かけるが、昔ながらの瀬戸物屋さんはもうなくなってしまった気がする。


そういえば、奈良に「やきものいこま」というお店があった。雑誌で紹介されていて、奈良や京都に用事があったこともあり、寄ってみたのだけれど、中に入ってびっくりした。商店街の陶磁器やさんのように、ところ狭しとうずたかくお皿や鉢が棚に積み上げられていた。
歩いて空気が振動する度に、棚の中の食器が震える音がするようなお店。食事がすんで食器を洗っているときに、時折食器が重なり合って立てるような音が聞こえてくるようなお店。もちろん、そんな音は実際にはしなくて、ぎっしりなのに品がよいお店だったのだが、がちゃがちゃとか、お茶碗、おばあちゃん(こういう言い方は好きではないのだが)、と「ちゃ」の字が似合う気がする。ちゃぶ台という言葉とかレトロは似合わない。奈良ののんびりとした陽光が似合う自然な感じのお店だった。


こどもが小さかったときで、千鳥ギャラリーさんではないが、千鳥の絵の付いた小さなお丼を一点だけ買って帰った。可愛らしかったので、次に行ったとき、「そういう感じでいいなと思うもの」を探したがちょうど欲しいものがなくて、何も買わずに帰った。そのうち、奈良近辺に用事が無くなって行く機会もなくなった。
検索してみると、やきものいこまさんは、2,3年前に閉店されたらしい。


私はノスタルジーは全く持ち合わせていなくて、というのも自分の生年がもはや昭和枯れススキな感じでげんなりするからだが、カフェ風でもギャラリー風でもなく、ちょっと普通にお皿など買えるお店があっていいものだと思う。


*別ブログ「うさぎの切りかぶ」に「やきものいこま」さんのお丼の写真を載せました。記事はこちらですが、同じ写真を貼っておきます。きれいに撮れたらまた貼り直します。    2012.11.14








器屋さん、ネットウィンドウショッピング

できれば景気のよいことを書いてみたいものだが、なかなかそうはいかない。
先日、器屋さんのことを書いたが、昔は旅行先などでも器屋さんに寄って、気に入るものがあれば、普段使いのお皿を二枚とか、大皿を一枚、買っていたものだった。その頃は「大人買い」という言葉はなく、大人は大人でも我が家は大人しく、家族の数より少ない枚数を買うので、食事の時はそろわずに困ることもあった。

何かと物入りな世代になってからは、器屋さんとは縁遠くなり、ネットでも器屋さんのサイトを見なくなった。昨日、たまにはと思って、東京の器屋さんのサイトを久しぶりに覗いてみた。雑誌によく掲載されているらしく、ご存知の方も多いかもしれない。千鳥ギャラリー

初めて拝見したとき、店主が書かれるブログが面白かった記憶があるが、そのお店の器は、料理が盛りつけられて撮影されているのが印象的だった。
それがとても美味しそうで、綺麗。視覚的に効果倍増で、展示会でもオンラインショップでもすぐ完売するようだ。ここのお店は本当にビジネスセンスがいいなあとやたら感心してしまった。一方でだんだんと気後れもしてきて、かえってあまり覗かなくなってしまったので、人気がありすぎるのも難しい気がする。

昨日は久しぶりにさっと拝見した後に、改めて千鳥ギャラリーを検索してみたら、薬膳料理家の柳田栄萬さんという方が開いたショップだと知った。我ながら今までどこを読んでいたのか疑わしい。ネットでも、店の外のウィンドウから眺めていただけで、中をしっかり見ていなかったのか。でも、道理でお料理が美味しそうなわけである。柳田さんはお料理のブログ→★

ともあれ、器屋さんだけでなく、最近のお店はサイトが綺麗で、雰囲気を楽しめるし、商品の情報も昔と比べて惜しげもなく公開してくれている。お店のプロデュースの仕方が時代と共に変わってきて興味深いので、たまには臆せずにあちこち出かけてみなくては。
リアルなほうのお店に入ると、内装のみならず、お店の人も綺麗だったり、感じが良くて、その進化に驚いてしまうことがある。今さらながら、私も進化してみたいものだ。


一葉さんのDMを3,4年前に
家具屋さんで撮ってみたときのものです。
一番上は「清水なお子・土井善男の二人展」で、
千鳥さんでも昨年末に開催されていたようです。





2012年1月24日火曜日

Lenine テスト、「 Paciencia」Cristina Bragaのハープと

Lenine 

ブログにまとめると自分が聞くのに便利だからという理由で、
アップしては使い勝手を試している段階です。
何かと落ち着きません。


クリックすると、レニーニのオフィシャルサイトにつながります。
レニーニLenineレーニンのせいか、
ロシアから検索ロボットが来るようで、
まだ何だかよくわかりません。
いろいろと書いていたのですが、
この画像だけ、見ていたいことがわかりました。


Lenine,Chico cesar & Moska
ポリスの「見つめていたい」






上と同じくAlexandrePontesさんのチャンネルから。
スタジオにゲスト出演したときのレニーニ
「見つめていたい」を英語で、ギター無しで歌っています。
1:26あたりから。別ウィンドウでは開きません。
http://www.youtube.com/watch?v=ATP6wTg959g


Lenine
Paciencia 忍耐
 Acusticoより
ハープ奏者 Cristina Bragaさんがゲスト



工事中
Mesmo quando tudo pede um pouco mais de calma
Até quando o corpo pede um pouco mais de alma
A vida não para


Enquanto o tempo acelera e pede pressa
Eu me recuso faço hora vou na valsa
A vida é tão rara


Enquanto todo mundo espera a cura do mal
E a loucura finge que isso tudo é normal
Eu finjo ter paciência
E o mundo vai girando cada vez mais veloz
A gente espera do mundo e o mundo espera de nós
Um pouco mais de paciência


Será que é tempo que lhe falta pra perceber
Será que temos esse tempo pra perder
E quem quer saber
A vida é tão rara (Tão rara)


Mesmo quando tudo pede um pouco mais de calma
Até quando o corpo pede um pouco mais de alma
Eu sei, a vida não para (a vida não para não)


Será que é tempo que lhe falta pra perceber
Será que temos esse tempo pra perder
E quem quer saber
A vida é tão rara (tão rara)


Mesmo quando tudo pede um pouco mais de calma
Até quando o corpo pede um pouco mais de alma
Eu sei, a vida é tão rara (a vida não para não... a vida é tão rara) 

2012年1月22日日曜日

家具屋さんで

街中で
中庭にお茶室のある家具屋さん
店内からサッシ越しに撮っています。




曇り空なので、
テーブルの顔色が悪く見えます。


帰りがけは晴れてきました。


2012年1月21日土曜日

Weissenbergのスカルラッティ

ワイセンベルクのスカルラッティがたくさんアップされていた。
PhilippLo The Eternalさんのチャンネル
久しぶりに聴くので、どれがお気に入りだったか忘れてしまった。スカルラッティは好きなのと苦手なのがある。苦手なのに限って、有名でよく弾かれているような気がする。


一時期、「まりんきょ学問所」さんのスカルラッティの部屋をよく拝見していた。もう何年前のことだろう。ある日、まりんきょさんは5年日記を始められた。当時は紙の5年日記のイメージしかなかったし、まだ開始されたばかりだったので、去年は何していたくらいしか出てこなかったように思うが、今拝見すると、大変面白い。パソコン画面上に過去が一度に並べられる。


ピアニストのワイセンベルク、わたしはどうして知って、何故とても好きになったか忘れてしまった。顔と雰囲気が好みだったのかもしれない。あるとき、検索したときに熱烈なファンらしき方がいらっしゃった。「ピアノぶらぼー! もっと身近にクラシック」さん。ワイセンベルクさまと様付けで呼んでいらっしゃって、以後わたしも家ではワイセンベルク様と呼ぶことにしている。


ここまで書いてwikipediaで検索したら、アレクシス・ワイセンベルク氏は、2012年1月8日に亡くなっていた。


暗譜できずに終わっていたK8とK247は仕上げようと思う。


Alexis Weissenberg(1982)
K8 Allegro


k247 Allegro



K109 Adagio



k233 Allegro


K450 Allegrissimo


K544 Cantabile



トラーゼ先生のK32は次回

2012年1月20日金曜日

「うらしゃん」さんのヨガ

高校の時に同級生から借りたヨガの本が2冊ある。非常に申し訳ないが返していない。一冊はもうバラバラになりかけている。この2冊を当時から真面目に続けてやっていたら、私は今頃インストラクターになっていたかもしれない。残念ながら、ときどき開いてはちょろっとやる程度で、ここ数年、ほとんどやっていない。体はどんどん硬くなっているし、気は循環せず、まさに木偶の坊状態である。


昨年秋、体力不足を感じ、このままでは本当に朽ち果ててしまうかもしれないと思って、ヨガを再開することにした。ヨガのサイトを見ながら11月いっぱいは楽しくやったが、だんだん寒くなると服の調節やらスペースの確保など億劫になることが増えて、さぼり始めるとずっとさぼるようになってしまった。幸いにして、昨日は体調を悪くしたので、元気になりたい、気持ちよく一日を過ごしたいと思う気持ちがぐんと強くなった。
今夜から、またやってみようと思う。


昨年からお世話になっているヨガのサイトは「うらしゃん」さん。最初拝見したとき、イラストに私の年では無理かも、と一瞬思ったのだが、すぐにしっくりはまってしまうようになった。イラストのメリハリあるボディが目の悪いわたしにはちょうどよいのかもしれない。大きな字が嬉しい。またポーズ途中の図がなくて完成形だけのシンプルな点が、わかりやすくてよいのかもしれない。


それにしても、返していない本はどうしようかと思う。時折、読み返せば読み返すほど貴重なことが書いてある本である。このことはまた考えることにして、というより返却、お詫びという行動に移さないといけないのだけれど、とりあえずアップ。

ファブリツィオ・デ・アンドレCreuza De Ma jamin'A


Fabrizio De Andre
Creuza De Maから2曲目
Jamin'A


ライヴ
楽器を見るのが楽しいです。


トリビュートで、
別のグループが演奏しています。
調べ方が悪いのか、このひとたちについて、よくわかりません。



工事中
歌詞等いつか転載します。

2012年1月18日水曜日

器屋さんと二千円札

昨日、割ってしまった器は、ギャラリー一葉さんで買った。ついこの間のような気がするが、もう何年も前のことだと思う。


ギャラリー一葉さんは小さな店舗だが、たいそうな人気で、陶芸作家の個展があると、ほとんど初日の金曜日に出てしまう。30代くらいの若い人たちが、大人買いしていくと知人から聞いた。先日の花岡隆さんの個展では、開店前から列が出来て、整理券を配るほどだったらしい。


うちは、たまにしか行かないのだが、土日を越して期間も終わり近くに寄るので、ほとんど器が残っていない。展示会をしていないときに寄ると、これまた二点欲しいところが一点しかないとかで、注文になってしまいかねない。ということで、最近はあまり展示会にも行くことがなくなり、しばらくご無沙汰している。


ギャラリー一葉さんの一葉は、五千円紙幣の樋口一葉とは関係なかったと思う。だが、お店に初めて寄ったころは、五千円札の樋口さんもお目見えから一年ちょっとで初々しいかったような気がする。樋口一葉も野口英世も借金があったとかお金遣いが荒いとか言われていたので、紙幣にするにはどうかと当時はよく皮肉を言っていた。これではお金に愛されないだろう。


紙幣というと、会費を集めているときなどに二千円紙幣をもらうと、急に気持ちがそわそわする。トランプゲームの「ババ抜き」のババが回って来たような気持ちだ。
早く使ってしまわないと、と焦るように買い物に行き、レジで無事お金を受け取ってもらえると、ほっとする。


二千円札は日銀の金庫に大量に眠っているらしい(Wikipedia)。これをもっと流通させればと思う。政府が公共事業をやって、お金は現金二千円札で払うのだ。そうすれば、みんながお金を急いで使いたがるようになっていいのではないだろうか。

2012年1月17日火曜日

割ってしまいました


昨日、未来は五分五分と書いたのが悪かったのでしょうか。
白い器を割ってしまいました。
100%当たったって感じです。


2012年1月16日月曜日

備忘録 プラトンの洞窟の世界観、ダイハード

境先生の哲学とは関係ないのですが

「カラパイア」さんの記事
クレイアニメーション


Tさんブログに紹介されていたのですが、
カラパイアさんだけ、載せさせてもらいます。

こちらは、全然関係ない
レゴブロック
Die Hard Done in 60 Seconds 2011 Lego
「ダイハードⅠ」を1分で


五分五分の確率

筑波大学大学院システム情報研究科構造エネルギー工学専攻教授 境有紀先生のサイトを久しぶりに訪問した。昔は、よく拝見していた。最近は、東北大震災のときに一度トップを見たが、中には入らなかった。入り口が込み入っているのである。


地震防災学がご専門の境先生は、ピアノを弾き、バドミントンやスキーにも汗を流される方で、アクセスするようになったのは、やはりピアノ関係がきっかけだった。
東北大震災後にも思ったが、境先生のサイトの作りは、昔と変わっていなくて、お写真もそのままである。まだ50代手前だから、しばらく写真もこのままかもしれない。
「人生や世の中などいろんなことについて考えること」のページも無事残っていた。哲学?のページで、レベルが違いすぎるピアノ関係のページよりも夢中になって拝読したページである。
それは、ご本人も書かれているとおり、HPの奥の方に、それもわかりにくい場所にあって、個別記事も探しにくくなっている。長文で書かれているので、読むには結構体力が要る。以前、私はあえて迷路を楽しむように、あちこち読んでいた。すべてに共感するわけではないが、境先生の、一般に「これはこうだ」と決めつけられていることに対する嫌悪感や残念だと思う気持ちに通じるところがあって、「人生所詮退屈しのぎ(仮)」という際どいタイトルの文章もまだあった。先生の基幹部分となっているようだ。
いや、本当に、人生とか社会に経済、世界や宇宙も、運動していないとエネルギーの循環が止まってしまって何にも無くなってしまうのかもしれないと、体が平べったくなるほど寝ている私は感じる。起きているときも同様に私は平べったい。

防災関連のコラムも勿論あって、10回中9回の「無駄足をしっかり踏めるか」と防災教育の重要性を強調されている。
私は、未来で何かが起きる確率って五分五分だと思っている。その反面、何となく自分は大丈夫と思ってしまうのが甘い。おまけに、無駄足を踏む体力も無いくせに、長く書いてしまった。こういうときは、言いたかったことが書けていなくて、あとで書き直した方がよいと自分でも思う。

2012年1月14日土曜日

世界漫遊ビジネスオンライン

私はこれまで、ネットなどで自分に都合のよい記事を見つけても保存し忘れてきた。それで、このブログを備忘録として始めてみたのだが、その都合のよい記事というのは、大概が「いてもいなくてもよい人物」とか「無駄な人」がキーワードである。だけど、そのキーワードしか覚えていなくて、肝腎な内容をしょっちゅう忘れてしまう。


夏くらいだったか、あるブログで紹介されていた記事を読んで、思い当たったことがあった。それは、青空文庫にある「世界漫遊」(ダビット ヤーコプ・ユリウス David,Jakob Julius著1859年~1906年 ダウィットと表記したりいろいろ)という短編小説である。森鴎外が訳している。森鴎外は、ほとんど読んだことが無くて、たぶん、これから先も読まないだろう。森茉莉のお父さんと思っている。森茉莉も一度読んだきり。


だけど、鴎外が訳していなかったら、この小説は読まなかった。というのも、森鴎外や他の明治の文豪?作家たちの小説は海外小説のパクリだ、彼らが翻訳した小説のほうが面白いと聞いたので読んでみようと思った次第で、マイナスの評判も馬鹿には出来ないと思う。


さて、この「世界漫遊」、19世紀当時のバブリーな話か、冒険記かと思ったら、いきなり出てきたのが、ウィーンの一流銀行に務める「いてもいなくても差し支えのない」という銀行員だった。名前がチルナウエル。原著はどうなのか疑わしい気がするが、いてもいなくてもよい人物だと執拗に随所で繰り返されて、この名前が変にしっくりしている。
このチルナウエルを「ウィインの銀行は、いてもいなくても好い役人位は置く」という鷹揚さで雇い、チルナウエルはチルナウエルで「自分がいてもいなくても好いということは自分がよく承知している」と両者の関係が収まっているのだが、あるブログで紹介されていた記事を読んで思い出したというのは、このことである。


その記事は確か、「大企業、一流企業は、いてもいなくてもよい人材を雇っている」というものであった。人件費が一人一千万円を超えても、?人か雇用しているというのだが、そこを読んだ途端に頭の中が「世界漫遊」になってしまった。
勿論、その記事は、何故無駄だと思える人材を企業は雇っているのか理由を書いていたし、軽作業のためといったことでは無かったと思う。普通なら、無駄な人件費はカットしろ、その分内部留保に回せ、株主や消費者に還元しろ、ということになるだろう。だけど、理由の箇所を全く覚えていない。それで、どのビジネスオンラインかビジネスプレスか経営コンサルタントだったかと検索してみたのだが、そんな話は見あたらない。


根拠となるものがないと困る。実際、私は世間が狭く、「そんなの当たり前、無駄な正社員なんか幾らでもいて、優秀な派遣社員やパートで補っているのに、切っていくのは派遣のほうからだ」とか、実態に対する認識が間違っているという指摘は幾らでもあると思う。まあ、だがこの小説に出てくる「チルナウエルのような人物を雇う、それくらいの余力」がなければ物語も始まらないとお茶を濁すことにしよう。


世界漫遊」では、私は、チルナウエルの身の僥倖を羨ましいと思うカフェに集う人間側である。伯爵であり中尉であり、美男子で頭もよいが自堕落な感じ漂うポルジイが「誰か僕の代わりに世界一周してみる人いませんか」という声に応えられなかった側だ。この世界漫遊の話が持ち上がったきっかけ、お金の話、チルナウエルの世界漫遊中に中尉と恋人がどうしていたか、その後二人はどうなったかという経過とともに、それぞれの立場の身の処し方、人物像、世間というものがよくわかる。でも、最後には登場人物が皆、好いところに収まる、後味の好い話である。


青空文庫にある古めかしい小説とか「まんが日本昔話」の枕部分など、コンパクトに世の流れや処世術が語られているので、なかなか興味深い。

加藤和彦
around the world


とりあえず、この曲。


★哲学ニュースから 「社内ニート」

2012年1月12日木曜日

ファブリツィオ・デ・アンドレの地中海音楽 Creuza De Ma

Fabrizio De Andre 
レニーニとファブリツィオがあれば、というくらい好きなイタリアのアーティスト。
ただし、好きなのは晩年の三部作「 Creuza De Ma」「Le Nuvole」 「Anime Salve」である。


ファブリツィオ・デ・アンドレを紹介してくれたのは、友人の友人で、最後の「Anime Salve」から1,2曲テープに入れてくれた。大変よかったのだが、声がフランスの歌手ブラッサンスに似ているということで、シャンソンが好きではない私は、CDを買うのにかなり躊躇した。
夫が、買ってみようと言ってくれたおかげで、こんな素晴らしいアルバムに巡り合えたのだが、持つべきものは友人だと思う。
初期の作品も少し聞いてみたが、ほとんど馴染めず、そちらから先に聞いていたら、大変残念なことになっていただろう。

さて、「Creuza De Ma(地中海への道程)」だけど、友人の友人は、「地中海の彷徨」と訳してくれたような気がする。
Rainbow's endさんによると、「(=Mulattiera di mare ムラティエッラ ディ マーレ )
  海に続く細道」だそうだ。このアルバムについては、重複するがendさんのれびゅー1045が簡潔で「十分」感触がつかめると思うので、ご覧いただきたいと思う。
検索すれば、ファブリツィオファンの方々も皆さん、ご自分の言葉で語っていらっしゃるのに、私はただ好きだ、としか言えない。ファブリツィオの声自体はそんなに好きなタイプではないのに、不思議。

ジェノバ方言で書かれた歌詞はわからない、だけど、意味がわからなくても聞ける、一枚通しても聞ける、ずっと長く聞いていたいアルバム。



Creuza De Ma 
アルバムの1曲目
Creuza De Ma






ライヴ






ファブリツィオは1999年1月10日に亡くなりました。


息子のクリスティアーノ(右)とマウロ・パガーニ
パガーニはこのアルバムの共作者です。




工事中

*Rainbow's endさんのレビューは、昔は”れびゅー”と書かれていたような気がしたので、ついそう書いてしまいますが、今度から音源ガイドと改める予定です。

2012年1月11日水曜日

少し昔のようなこと

友人がみかんを一箱もらったから、お裾分けしてくれるという。今、その友人は一番のご近所さんで、自転車に乗って届けに来てくれた。我が家は、じゃがいもをお裾分けすることにした。こちらは家庭菜園をしている親戚から年末にもらったもので、差し上げてよいものか少し迷った。じゃがいもは常備野菜で友人宅にも十分あるかもしれないし、もう少し気の利いたものはないかと思ったけど、何も無かった。


我が家の玄関先ではなくて、マンション?というか小さいビルの出入り口で、おみかんをいただいた。じゃがいもは喜んで受け取ってもらえて、ほっとした。物々交換は楽しい。


今日はだいぶ暖かいと思って外に出てみたけれど、友人と立ち話をしているとすぐに寒くなってきた。ちょっと手をこすり合わせたりポケットに入れたり、体を左右揺らしたりしてお喋りした。でも、お昼前の空気が清々しかった。
それは、ほんの短い時間だったけれど、友人から、みかんをくれた人のことや知人の消息を聞いて、情報が倍になった気がした。
こんなふうに、気軽なご近所づきあいをするのは久しぶりのような気がする。


おみかんのこと。
このところ、我が家では小さな一口みかんが主流になっているので、皮がぷわっとした大きめのみかんは、頂き物でしか食べない。頂き物に外れはなく、とても美味しい。
レモンひとつ、友人のお母様がつけてくださった。





2012年1月9日月曜日

ブランフォード・マルサリスのブラジル風バッハ第五番

ヴィラ=ロボスといえば、一時期、ブランフォード・マルサリスのサックスで、ブラジル風バッハ第五番をよく聞いた。ヴォーカルが入ったお気に入り曲を数曲まとめたときに、間奏曲代わりに入れたりもした。この第五番はソプラノ歌手によるアリアでも、本当によく聞いた。
YouTubeにアップされていたので、ここにもおいておこう。


Branford Marsalis
Villa-lobos
Bachianas Brasilieras No.5 
for Soprano Saxaphone



Norbert Kraftのヴィラ=ロボス

一年ぶりに会った友人からヴィラ=ロボスのギター曲CDを頂戴した。友人は帰郷するとき、荷物の中にそのCDをいつも入れそびれてしまって、これまで手渡せなかったと言ってくれたのだが、その間の時間も何だか有り難く感じる。表紙がとても綺麗。



ヴィラ=ロボス:ギター独奏曲全集


さて、Norbert KraftさんのCDをかけてみると、よく知られたものから始まり、プロは上手だねえなんて思っていたら、なかなか高名な方らしい。検索すると、若い頃の画像が出てきて、容貌が格好よすぎる。でも、近影はなさそうだ。

Norbert Kraft and Bonnie Silver Duet
ハイドンだそうです。後で調べます。



利権その1 Jocelyn Pook追記

歌詞の訳などが載っていて便利ですので、見てやってください。

夫婦で大体同じ曲を聴いているし、いいと思う曲は大部分が重なってしまいます
ですが、その重なってしまう曲の数々も、私と夫では思っていることが違うので、
一種のパラレルブログでしょうか。
もちろん、好みが合わない曲もたくさんあります。

ただ、何となく、
夫が物知り顔で書いているのが気に入らないことがあります。
情報に利権争いは意味ないのですが。

2,3年前ブレイクしていたときに見ました。
まんが日本昔話らしく怖いお話です。

2012年1月7日土曜日

心の整理 Jocelyn PookとJehro

ピアノの練習をしようと思うのだが、次に弾きたい曲が決まらず、ピアノを避けてしまう。
ピアノの部屋は寒々としている。ピアノの部屋といっても、リビングとほぼ同室。一歩、二歩でピアノにぶつかってしまうくらいなのに。


この記事をアップした翌日、早速書き直すことにした。二曲セットでYouTubeで紹介したのだが、それは両方とも静止画像が綺麗なお姉さん二人で似ているから、混同してしまうというのが理由だった。これはいくら何でも馬鹿過ぎると思うけれど、その時にはその時の理由があった。理由というのは何でも後から考えると滑稽なのだが、この二曲への情報処理がそういうふうに流れる、カードを一緒にめくるという「癖」になっていた。整理はついたけど、この二つはもう完全にセットになってしまっている。結果は変わらない。


Jocelyn Pook→★ 
<Rainbow's endさんれびゅー1127番、
Pookを聞いてみるきっかけとなりました
habitacion en Roma」のサントラから
Libera Me
女性三人(三番目もたぶん女性)の混声が好きなのですが、
映画は見ないと思います。世界が違います。



Jehro
All I want

Jehroのこの曲は、初め、
Terence Trent D'arby (現Sananda Maitreya)に声が似ているようだし、
曲の99パーセントに既視感があるので抵抗がありました。
でも、聞いたことがあるようで、すれすれ聞いたことがなく、
聞いていて嫌にならない曲作りというのは、
なかなか簡単には出来ないこと。
肩の力を抜いて聞くのにちょうど良いです。



備忘録 「時間」

サマンサの時間を止める話(12/25)に関連して。
アメリカ国防総省がコーネル大学の「時間を止める装置」を開発援助し、実験が成功したそうである。止めた間は約40ピコ秒(一兆分の40秒)。
この装置、正しくは「時間を止める」ではなく、時間と空間を隠す「タイム・クローク」なるものらしい。ナショナルジオグラフィックニュース1月5日の記事。読んでも理解できるものではないのだけど、このサイトは体裁が綺麗ではなくて、開いたときは、痛いニュース系かと思った。

元々この記事を知ったのは、個人の方のブログでin Deepさんからで、この方は、淡々と
地球上で起きている不思議な現象(大きな穴が開く、生物の突然大量死、氷河期の到来)などをピックアップされている。超常現象って既に日常的にニュースが流れているような気もするが、慣れない方はin Deepさんのサイトに戸惑われるかもしれない。



映画「Paul(宇宙人ポール)」では、
アメリカの時間変更線を挟んで、こっちは11時、こっちは12時と飛んで
簡単なタイムトラベラーを楽しんでいました。




2012年1月3日火曜日

宇宙人ポール Paul

映画「Paul 宇宙人ポール」を見た。
過去のSF映画をあまり知らない私でも、十分に楽しめた。とても気に入ってしまった。




スピルバーグ監督へのオマージュが散りばめられているそうなのだが、スピルバーグはあまり見たことがない。と言った先から訂正をしなくてはいけない。つい2,3日前に、スピルバーグが製作総指揮を務める「トゥルー・グリット」(監督はコーエン兄弟)を見たばかりで、大変面白かった。西部劇なので、出てくる人間の数が現代と比べて圧倒的に少ない。メインはヒロインの少女と彼女が雇った保安官、レンジャーの3人組に、悪党くらい。


「ポール」も、そんなに人間の数は出てこない。多いといえばコミック・コンに集まった人たちくらいで、このへんの人数の濃さがちょうどいい感じ。この映画を作ったのが、「ショーン・オブ・ザ・デッド」の脚本・主演をした二人組(当ブログでは12/12にご紹介)だけあって、気持ちが、手の届く範囲で収まっている。これを対人類に規模を大きくしてしまうと、人類の三分の二は吹き飛ばすような話になってしまうのかもしれない。


だから、細々(こまごま)と面白い。
特に私が気に入っているのは、ポールと二人組が夜、バーベキューをしながら、マーヴィン・ゲイの曲に会わせてダンスをするシーン。ラストでは、私にでもわかる「あの方」が出てきて、大喝采だった。


GALAXY QUEST ギャラクシー・クエスト
こちらもSFパロディ映画です→wikipedia





MARS ATTACKS! マーズアタック
 「We come in peace」
ポールはこんな宇宙人ではありません。


おやつ

おやつはキウィジュース。
20年以上前に、デパートのカフェで飲んで以来、
家でも簡単に作れるので、よく飲んでいる。
はちみつが入っていて美味しい。
でも、世界的にミツバチが減少しているニュースを聞いてから、
もう2,3年になるが、大丈夫だろうか。



2012年1月1日日曜日

一年のループ

数年前、年を越すのが大変だと思ったことがある。大晦日の午後11時頃から体が重くなって、時空の山みたいなものを感じ、午前0時を過ぎたときは、年を越せて本当に有り難いと思った。
このことを友人に話すと、友人も同じく、その年を越すのに、エネルギーがかなり要ったと言っていた。
だけど、その年以外は、ごく普通に何ともなく新年を迎えている。


今年はというと、「始まりは終わり、終わりは始まり」と、よく物語の最初の方で語られるように、何だかそんな感覚と共に一年が始まったような気がする。一年の始まりと終わりが、親指と人差し指をくっつけて輪っかを作るみたいにくっついている。あるいは、一本のロープの端と端をつなげて輪にしたときの、結び目が現時点であるかのように思った。


この一年の終わりが既に私の手元にある。そうであるならば、何と目出度いことか。きっとこの一年は、途中何があっても無事に終えて、私の手元に戻ってくるのだと思う。


でも、去年の大晦日にアップする予定だった、レニーニの曲を今日アップするのはどうだろうか。去年の年末がくっついてきてしまった気もするし、今年の年始も年末も、そして去年の年末も1箇所でくっついていれば、何も不自然ではない気もする。
「最後」を歌った曲は多いけれど、必ずその次が始まるような気がしてならない。

lenine
O Ultimo Por do Sol
最後の日没


歌詞と訳はこちらからどうぞ→★