2012年7月30日月曜日

Virginia Rodrigues e Caetano Veloso 一番よく聞いている曲


ブラジルにヴィルジニア・ホドリゲスという女性歌手がいます
アルバムは主に2枚しか聞いたことがありませんが、その中から特に三曲が気に入って、ファブリツィオ・デ・アンドレのアルバム「Creuza de Ma」やレニーニと同じくらい、それ以上に一番よく聞いているのではないかと思います。

まずアルバム「NOS」(2000)から一曲、Jeito Faceiro(おどけた仕草)。
いつ何度聞いてもミステリアスで、深く引き込まれていきます。
その点、他のアルバムは、たぶん、普通にきれいにまとまってしまって、囚われることがないのかもしれません。印象に残っていません。

この曲は、生きている限りずっと聞いていたい不思議な曲、でも、歌詞を見ていたら、私は死んでいくときは、明るく空へ舞い上がれるような曲がいいかなとふと思いました。自由に。もう何度も生まれ変わらなくてすむように。

でも、深遠な曲というのも幻で、聞いている間の一瞬のこと、さらにこのタイトルが示すように、すべては、おどけた遊びの世界なのかもしれません。


Virginia Rodrigues e Caetano Veloso

Jeito Faceiro
(おどけた仕草)


歌詞は例によってこちらから→☆


Ô mar, um abrigo que lá está
海、そこにある避難所よ
No ser a felicidade
幸福な状態にある

Na beleza de ser você
お前はほんとうに美しく
No encanto de ser mulher
女である魅力を放つ
Delirar no seu jeito faceiro
おどけて心狂わせる
Seu dengo maneiro
その甘い叫び
Seu bem me quer
その善きこころがわたしを求める

Me leva eu com você
お前とともにわたしは立つ
Pra ficar tudo legal
お前といっしょに並べるように
È só te ver
ただお前を見ていられるように

È de se bailar no Olodum 
オロドゥンの姿で踊るのだ
È nesse suingue eu vo dançar
体を揺らし踊ろう
È nesse bailar no Olodum 
オロドゥンの姿で踊るのだ
È nesse suingue eu vo dançar
体を揺らし踊ろう

Desce do espaço imenso
広大な地に下る
Uma águia pro oceano
海を守る一羽のワシが
Mergulha bem fundo além do saber humano
人間の知の奥底にまで潜り込む
Atlântida viva quem sabe esquecida
生命を持つアトランティスは忘れられたものを知っており
Renascerá
何度も生まれてくる
E hoje u guerreiro Olodum, encantando a cantar
そして、今日戦士オロドゥンは魅せられて歌う

O me leva eu com você
お前とともにわたしは立つ
Pra ficar tudo legal
お前といっしょに並べるように
È só te ver
ただお前を見ていられるように
È de se bailar no Olodum
オロドゥンの姿で踊るのだ
È nesse suingue eu vo dançar
体を揺らし踊ろう
È de se bailar no Olodum
オロドゥンの姿で踊るのだ
È nesse suingue eu vo dançar 
体を揺らし踊ろう



2012年7月28日土曜日

おまけ  花火大会



久しぶりに花火を見に、近くの川縁まで出かけました。




横で見ていらっしゃった方が、
ビルが観音様みたい、と話すのが聞こえました。






いつもより10分早く、終わったような気がします。


森を見て木を見ず スタッカートに気がつく

執拗に書いてしまう練習記録。認めたくはないのだが、苦手なものに向き合えるようになったほうが、得られるものは大きいようだ。まだまだ少しずつかじっている段階。


苦手というのは、易しい曲だからつまらないのではなくて、優しい曲で自分には合わないから。普通の人なら、3,4日あればミス無く弾けて、半月かひと月で仕上がる曲を、私は半年掛けて練習している。
前回、ようやく、先生に見ていただけるようになった。これまでは、間違った音を出していないか、リズムが変だとか、楽譜から逸脱していないかのチェックであったが、打鍵の仕方や表情のつけかたを、細かくご指導くださる。久しぶりのような気がする。
先生も私への指導にはお疲れのようだけれど、曲に飽きることは決してない方で、いつも真摯に楽譜と音楽に向き合っていらっしゃる。そうえいば、先生というものは、同じことを何度も生徒に教えないといけない職業だなあ。


さて、「木を見て森を見ず」という格言があるが、私が練習している状況は、その反対で「森を見て木を見ず」、一見面白くないけれど、中に入ってみたら結構よかったということかもしれない。
遊園地に入ってみたら、アトラクションが面白くて楽しめたみたいなことだろうか。曲の中からワンフレーズ取り出して練習して、細かなことに気がつけば気がつくほど楽しい。

この間は、スタッカートがたくさんあることに気がついた(一応知ってはいたが意識して弾いていなかった)。初めから先生は、「このスタッカートは軽く切って、次のフレーズへどん」とか、あちこち丁寧に教えてくださっていたのだが、先生がアドバイスしてくださったところ以外に、至る所についている。それがまあ、古典期の曲なので、若い美人が男性をからかって可愛い足を出したり引っ込めたり、爪で引っ掻いたりしている感じがする。長い脚で蹴り上げたりしている現代的なものはない。


先生にこうしたスタッカートのことを話してみると、「違います」。
「ここはですね、男性が、思いが叶わないことに嘆いて、はぁあっ、あぁあっ、と溜息をついているのですよ」
鑑賞力ゼロの私だが、それはそれでまた、どうなんでしょう、と思う。でも、私の気持ちなんか関係なくて、とにかく曲を奏でて演じなければならない。


以後、気をつけてスタッカートを場所に応じて弾いてみると、ちゃんと楽譜に自分が同化していっているようで面白くなってきた。「わたしは嫌だ、嫌だ」の自我が消えて、よい練習になっている。本当に感謝している。
この感謝の気持ちだけでいっぱいで練習した気になっていたのか、次に先生に見ていただいたら、「全然、前と変わっていない」とがっくりされた。筋肉が覚えるまで練習するのが練習だった。

ところで、60年代イギリス4人組も、顔が生理的に好きじゃないからどうしても受け入れがたいものがあるのだが、それはものすごい損らしい。オリンピックの開会式で一緒になって歌えば、大好きになったかもしれない。ー無理はしなくていいかな。ファンからしてみれば、余計なお世話だと言われそう。ほんと、そうだ。


でも、芸能人や有名人でも、間近で見たり、握手してもらったりしたら、一生もののファンになる。たまには敬遠せず、どんどん近づくと手に入るものも増えそう。
私は近眼で、近寄りすぎて嫌がられることもあるが。何だかんだいって、考えても分析しても意味のないことだった。


最後に思ったが、森を見て木を見ずというより、ただの「食わず嫌い」に近い話になってしまったようだ。



2012年7月25日水曜日

素晴らしかったコンサートとプログラム変更

先日の土曜日、「小畑佳子&本山麻優子 デュオ・リサイタル」に行った。
市が主催する文化事業の一環だそうで、前売り1500円だった。


小畑さんはメゾソプラノ歌手で、私はピアノの先生のご紹介でコンサート情報を知った。前に何度か「4ひきのこぶた」というシリーズのコンサートで、小畑さんの歌声を拝聴している。「4ひきのこぶた」というのは、ソプラノ歌手ばかり四人によるユニットだが、声楽に素人のわたしでも、それぞれの声の個性がこんなに違うのかと面白く、プログラムや脚本がいつも洒落ていて楽しい。
今回は日本歌曲をプログラムに組まれて、夏らしい選曲。


本山さんは、前売りでもらったパンフを見るとお若くて、まだ大学一年生の新進ピアニストらしい。経歴を拝見すると、海外でも活躍されて凄い方のようなのだが、演目を見ると、ちょっと悩んでしまった。リスト、スクリャービンが一曲ずつで、後はショパンが三曲もある。私はショパンが苦手で、前半は聞いてみたいけれど、ショパンはどうしようかと、実はチケット購入まで、しばし躊躇していた。


ひょっとしたら、この引っ掛かる気持ちが、主催者側に届いたのかもしれない。
土曜日、会場について着席すると、プログラムを変更しておりますとお詫びのアナウンスがあった。受付でもらったパンフを見直すと、前半がピアノになっている。曲目も、ハイドン、ショパン、リスト、スクリャービンで、ショパンがたった一曲に変更されている。


素晴らしい。


それにしても、大胆なプログラム変更で、前半にピアノを持ってきただけではなく、さらに歌曲の半分を入れている。休憩を挟んで後半は、歌曲の残りでたった三曲。これはなかなか良い知恵が絞られたのではないだろうか。
まるで、ピアノの前に帰ろうかと思っていた私の気持ちを見透かしたかのようである。とても嫌なことを書いて申し訳ないが、それくらい、最初のプログラムに魅力を感じなかったのである。
それに引き替え、新プログラムでは、事情があって、前半だけで帰らなければいけない人がいたとしても、ピアノも歌も聞けたということで、満足されるだろう。


ピアノの演目もがらりと変わったのは、誰がアドバイスしたのだろうか。最初のは、主催者側というか昔の大人が選んだ演目を思わせた。ショパンは定番過ぎるし、そのうち一曲は、夏なのに「木枯らし」なのだった。団塊の世代なら喜ぶかもしれない「革命」もあった。いや、私は「革命」を聞いたことがないのだけれど。


ここまで書くと、主催者側に腹が立ってくる。最初から、今回のプログラムにしておけば、お客さんはもっと入ったのではないかと思う。
それに、夏休み初日の土曜日にコンサートというのも、どうだろう。客層のターゲットは子どもからシニアまでらしいが、子どもや保護者の世代は、この土曜日は、学校での懇談や行事にあれこれ目一杯の予定で多忙なはずだ。
チラシも、どうにかして欲しいような古めかしさで、予算を掛けられないのは言い訳にはならないと思う。市の未来都市創造財団が主催だけれど、チラシは外注でお任せ、なら、なおさら、もう少しいい仕事をして欲しい。


さて、本山麻優子さんの演奏は、来て良かった、と心から思えるほど素晴らしかった。本山さん自らの曲についての解説を聞くと、年頃のお嬢さんそのままなのだが、演奏は立派で、自然な流れで、飽きることなく、非常に心地良く聞かせてもらった。私は、音楽を聴く耳を持ち合わせていないのと、演奏された曲についてあまり聴いたことがないので、細かく感想を書けないのが残念だ。これを読んでいる方は、もっと残念だろう。分かち合うものが何も無いブログで申し訳ない。


次の、小畑さんの歌曲も、期待通り、しみじみとよかった。最初の「浜辺の歌」は大好きな曲で、イタリアオペラも混じり、最後の「さとうきび畑」もよかった。休憩の前後で衣裳も替えてくださり、素敵だった。
アンコールでは、本山さんも最初のグリーンのドレスから白いドレスに着替えて現れ、小畑さんのピアノ伴奏を初々しい感じで務め、デュオ・リサイタルの締めくくりに相応しかった。


帰宅して、本山麻優子さんを検索すると、知らないほうが変、と思われるくらい、実力があるピアニストらしい。数々の賞を受賞されていて、動画もいっぱいあるのだが、生で聞いた方がもちろん音が良くて魅力的。


リスト
バラード第2番ロ短調  S171.R.16







2012年7月22日日曜日

分けられる幸せ

母のことだが、今、関東にいる。ほぼずっと末っ子と一緒に暮らしていて、10年近く前、転勤に伴って付いていった。関東は内陸部の暑さも寒さも厳しいところで大丈夫だろうか、それより関西での暮らしが長いから、生活が合うだろうかと気にはなったが、年の割には柔軟に適応したようだ。
知らない土地のほうが、のびのびと出来るのかもしれない。


私は、母と時折、荷物のやり取りをしている。母の日などの定例的なものとは別に、関東では売られていないものや贈答品を頼まれて送っている。母からは、野菜や食品などがお裾分けで送られてくる。野菜は、母の古い知人が届けてくれるものである。
送料のことを考えると、遠方から届いた野菜をさらに私のところまで、わざわざ送ってくれなくてもと思うのだが、こちらでは見かけない食品や品物も混ぜて送ってくれる。


でも、中にはネットで購入すれば無駄が無くていいのに、と思うものがある。元々、私の母やきょうだいはビジネスライクで、お互いを「慣れ親しんだ他人」「ちょっとものを頼める間柄」として気が合う、という感じで接しているくらいだ。思い返せば、かなり前は荷物のやり取りも少なくて、独立した家計同士ということで、親子間で費用を精算していたこともあった。これは、私の母もきょうだいも、計算したり数字を出すのが好きだったせいでもある。
そんな人たちから、何回かに一度は、どこでも買えそうなものを丁寧に依頼されると驚いてしまう。


また、そもそも母が知人から、それこそお心遣いで余分に頂く野菜も、ご近所にお裾分けできればよいのだが、どうもそうはいかないらしい。確かに、私自身もこの数年は、近隣へのお裾分けをしていない。今時、ご近所にお裾分けするほうが不自然で常識がないように思われる時代になっている。
仕方なく親子間で荷物を送り合って送料や手間を掛ける、ちょっとしたこの無駄も、世の中に必要なものかもしれない、とも思う。


こうして、関東に越してからの母と荷物のやり取りをしていると、連絡し合うことが増えたし、ほんの少し何かサービスをして一品でも添えて送りたいと思う気持ちが出てきた。どこでも買えそうなものをリクエストされるのも、荷物のすき間埋め以上に、向こうの気遣いかもしれない。私は、今や人から、ものを頼まれることがあまりない、哀しい人間なのである。
その点でも、あるときはプラスαで、あるときは本当にお気持ち程度で、中身は笑ってしまうようなものばかりにせよ、分け合ったり受け取ってもらえる相手がいるのは、なかなか幸せなことだと感じる。だから、イギリスでは、どんな貧しい人も遺言を残したのかもしれない(当ブログ「分ける歌」2012.6.270)。


ところで、分けあうことでものが循環し、皆が幸せになっていく客家のシステムを読んだことがある。どなたかがご紹介されていた、スピリチュアル系のサイトでのインタビュー記事の中にあった(*後注)のだが、雑食性で何でも読む私は面白く読ませてもらった。
経営コンサルタントで小田さんという方がいらっしゃって、その方の子ども時代が後半語られる。おうちの事情で子どもの頃から苦労をされているが、パチプロになったお母さんに体よく働かされて、これからどうなるんだろう、どうなるんだろうと興味津々に読んだ。淡々とした語り口で、可笑しい。よその人の人生は「語って」もらうと、可笑しなことをいっぱい経験されていて、とにかく可笑しいものだ。


小田さんの前半の話では、カースト制度は魂の成熟度状態を表すというのが、耳に痛かった。私はシュードラで心(感情)の奴隷らしい。引用させてもらうと、


 めんどくさかったらやらない、眠かったら寝る、そのときの気分に左右されるから、なかなか物事が続かない、だから技術や知恵が身につかないー


うん、その通りである。
やりたくないことは無理してやらなくていいとは思うのだが、小田さんが後に続けられているように、シュードラは、要約すると、
今の場所の居心地が良くて、新しいことに挑戦せず、「今のままでも、まぁいいや」ってごまかすので、新しい世界へ踏み出しにくい、
ということらしい。ますます、耳が痛い。うさぎの耳は長いのだ。


私も、現状維持の生活から抜け出して、皆さまにいろいろと分けることができて、幸せをいただくような生き方をしてみたい。現状維持もやっとのことで難しいが、お釈迦様も福の神(貧乏神と同一とも言われる)も、まず貧乏な家へ行って托鉢やら一晩の宿を求めたという。手持ちのものがなくても出すことで福は得られる話は何度も聞いたことがある。
同じ貧乏神でも、にちぎんそうさいにだけは、来て欲しくないなあ。


*クエストカフェ インタビュー No.37
小田真嘉さん  「お裾分けを少しずつ回せば、善循環スパイラル
話が前後してしまったが、このタイトルの前「社長の心の状態が、全部会社に反映されている」でカースト制度の話。



2012年7月20日金曜日

ふたつの三日月


母が、お見舞いで頂いたというメロンを送ってきてくれた。この間、母は怪我をしたのだった。幸い、大事には至らなかった。








また、後で。


2012年7月18日水曜日

楽譜が見えたのも束の間と、場所替えゲーム

ピアノの練習で、あまり好きなタイプの曲ではないからと、一時は身もだえするほど苦手に感じた曲と取り組んで、早、5ヶ月。さよならするどころか、まだやっている。でも、他に弾きたい曲も見つかって、モチベーションも上がってきたのが嬉しい。


さて、その苦手な曲を練習しているとき、突然、楽譜を見るってこういうことか、と体感できた日があった。もちろん、普段も楽譜を見て弾いているのだが、好きではない曲を弾くときは、実際、ろくすっぽ見ていない。
人間は、関心のないものには、ことごとく冷淡である。扱いが邪険である。


例えば今回、のどかな恋のメロディという曲想についていけず、泣く泣く練習するようになったときは、完全に関心がなくなって、どうでもいい感じだった。
もう自分がどんな音を出しているか聞いていないので、間違った音を出していても全く気がつかない。
先生が目を丸くして、
「もう長い間弾いているのに、初めて楽譜を見たみたいに弾かないでください」
「今、違う音を出したのに気がつかない?古典期の曲だから、和音が違ったらすぐ分かりますよね


私のほうこそ、びっくりである。
「え?、間違えていましたか。自分の出している音を聞いていませんでした」


「頼むよ〜」と、先生は絶句された。

「わ、それ、家でもよく言われるんです。でも、頼まないでください」


と、終いには、知っていても知らないふりをしてしまう関係になっていた。隣にいる人が明らかにボタンを掛け間違えておかしな格好をしていても、黙っているようなもので、そもそも関心が持てない。


そんなある日、どうしたことか、嫌だとか苦手だとか思わずに練習できた日があった。

そのとき、楽譜の音符というより音が見えたというか、今弾いている音の次に、これまで気がつかなかったけれど、こんなところにこんな音符があったのね、と見えたり、ある音符を弾いた後で、その出した音が聞こえるし、前の音も次の音も見えてメロディーとしてつながったりした。
リズムも感じ取れた。感じるだけで、実際には楽譜通りには弾けなかったが、とにかく、一音、一音が目に入って、音楽が流れて聞こえてきた。


こんな有り難い奇跡は一度だけで、その感動も長続きはしないが、次のレッスンでは、先生はさすがに変化を感じ取ってくださった。

ところが、人間は意識をし始めると、これまでの態度とは打って変わって、そわそわしたり、細かなことが気になってきたりするものである。
私は、弾きながら今度はぎくしゃくしだした。一節一節に注意を傾けては、自分の出すがさつな音に、ひいと後ろに退いては恥じ入った。
「何ですか、その挙動不審は」と先生があきれていらっしゃる。
我ながら、地球人のふりをしていたことがばれてしまった宇宙人のような動きだと思う。

それでも、ここまでお近づきになったのなら、何とか上手に弾けるようになってもいいのだが、結局、まあ、挨拶は交わすが、おつきあいはない隣人みたいな感じになっている。すべては記号で意味がないと思えばいいのかもしれない。


ともあれ、どんな曲でもいい、一度でいいから、楽譜通りに弾けるようにしよう。



「Men In Black」で
sugarを欲しがるEdgar





このエイリアンに体を乗っ取られた農夫役をしていた
ヴィンセント・ドノフリオが出演した映画
「13F」(SF。wiki,jp)を見ました。
バーチャル・リアリティの研究開発を巡るミステリーです。
主人公ではありません。

13F(1999年)
trailer




映画「ウエストワールド」(5/27記事)といい、
バーチャルだろうと遊園地だろうと、
前世や来世であろうと、
人間のやりたいことは変わらないと思います。


場所を変えて、違うゲームをしているだけなのかも。





2012年7月15日日曜日

7月は夕日を見ていたいのに

雨が続いて、温度が上がらない。この温度というのは、気温だけではなくて、自分や周囲の持っているエネルギー、熱気であろうか。そう、普通は「自分と周囲との温度差」で使われる温度のようなものだけれど、空気感さえ、だらりとしている。


植物も、晴天続きのあとに久しぶりに雨が降り、濡れそぼちながら生気を取り戻していくのとは違い、げんなりして見える。


大雨の被害も深刻だ。
我が家はテレビがないので、ネットや新聞でニュースを見て驚くのだが、日本だけではなく世界中のあちこちで、今年も悪天候に見舞われている。
アメリカの大干魃によるトウモロコシや大豆の大凶作は、食糧と経済、すべてに影響があるから、今すぐどうこうでなくても、先が不安。でも、心配してもどうにもならない。


in Deepさん 「太陽が消えたスウェーデン 「経験したことがない」と人々が語る東欧・北欧の異常気象 (2012.7.12)


in Deepさんは、大豆の収穫を気に掛けていらっしゃって、特に納豆が食べられるのも今のうちかもと書かれていた。わたしは納豆を食べる習慣が無く、食べるとしたら黒豆納豆が’好きだったのだが、東日本大震災後、店頭に並ぶメーカーが変わったせいか、食べていない。
黒豆納豆というと、昔、ポーランドの人が食事に来てくれて、若い青年だったが好物が黒豆納豆だという。それから我が家は、黒豆納豆を食べる度に、その男の子のことを思い出した。
その青年はお洒落で、スーパーで買ったというピンクのハートがたくさんプリントされたシャツがよく似合っていた。女優の緒川たまきが好きだというので、黒豆納豆以上に驚いた。当時の日曜美術館でも見ていたのだろうか。


話はどんどんそれていく。


そう、7月は夕焼けを眺めていたい。


Caetano Veloso e Gilberto Gil
「Cobra Coral」
珊瑚色のヘビの歌です。



英語の歌詞字幕付き




2012年7月12日木曜日

セルビアのMarco Tajcevic - 7 Balkan dancesと

プロコフィエフの「おばあさんの話」を動画検索していたときに、Lars David Kellerさんという方のサイトがあった。


セルビアのMarco Tajcevic(1900~1984)という作曲家の7 Balkan dancesのうち、6曲をアップされていた。バリッと格好良く弾いていらっしゃる。


Marco Tajcevic の 
7Balkanskih Igara (7 Balkan dances)


一番人気は、Con moteのようです。


Allegretto



関連動画から
Isora Castillaさんの
Tocatta

Marco Tajcevicとは関係ありません。


improvisationと書かれていました。



バルカンについては、
よく知らないのですが、
家人のブログで取り上げていたのが、
Mostar Sevdah Reunionの歌、
Kradem ti se u veceri です。
曲、歌詞と訳はこちら→☆
歌詞だけでも、よろしければ。




2012年7月10日火曜日

A Ponte レニーニ、島に橋 その1

七夕の日に、レニーニの「A Ponte」を探してみたが、ちょうどよい動画がなかった。
この歌が入っているCD「O Dia Em Que Faremos Contato(未知との遭遇の日)ー1997年」は輸入盤で、歌詞の意味が分からず、ネットで調べて驚いた。


「洗濯はどこでするの?」
「泉へ行く、泉へ行く」という問答から始まる。


昔話みたいだ。ロックとは思えない出だしだ。
この問答は、それなりに衝撃的だったので、それから後の訳は忘れてしまった。でも、意味はわからなくても好きな歌なので、先日、家人に訳を頼んでみた。

CD





「A Ponte」

歌詞と訳です。工事中


Como é que faz pra lavar a roupa?
服を洗うにはどうしてるんだ
Vai na fonte, vai na fonte
泉へ行く、泉へ行く
Como é que faz pra raiar o dia?
昼間時間をつぶすにはどうしてるんだ。
No horizonte, no horizonte
水平線で、水平線で
Este lugar é uma maravilha
ここは素晴らしい
Mas como é que faz pra sair da ilha?
でも、島から出るにはどうしてるんだ。
Pela ponte, pela ponte
橋を使って、橋を使って

A ponte não é de concreto, não é de ferro
橋はコンクリートじゃない、鉄じゃない
Não é de cimento
セメントじゃない
A ponte é até onde vai o meu pensamento
橋はおれが思うところに行かない
A ponte não é para ir nem pra voltar
橋は行ったり帰ったりするためにあるんじゃない
A ponte é somente pra atravessar
橋はただ渡るためにある
Caminhar sobre as águas desse momento
その時、水の上を歩くんだ

A ponte nem tem que sair do lugar
橋はそこから出る理由なんかない
Aponte pra onde quiser
望むところを指すんだ
A ponte é o abraço do braço do mar
橋は海の腕のハグなんだ
Com a mão da maré
潮の満ち引きという手も持っている
A ponte não é para ir nem pra voltar
橋は行ったり帰ったりするためにあるんじゃない
A ponte é somente pra atravessar
橋はただ渡るためにある
Caminhar sobre as águas desse momento
その時、水の上を歩くんだ

Nagô, nagô, na Golden Gate
流れる、流れる、ゴールデン・ゲート・ブリッジだ
Entreguei-te
きみに譲った
Meu peito jorrando meu leite
おれのミルクを吹き出すおれの胸。
Mas no(Atrás do) retrato-postal fiz um bilhete
絵葉書の裏でチケットを作った
No primeiro avião mandei-te
送ったよ、一番早い飛行機を
Coração dilacerado
決まらない心
De lá pra cá sem pernoite
ここを出る、泊まりはなしだ
De passaporte rasgado
すり切れたパスポートで
Sem ter nada que me ajeite
ピシッと決まる服以外は何も持たず

Nagô, nagê, na Golden Gate
流れる、流れたい、ゴールデン・ゲート・ブリッジで
Coqueiros varam varandas no Empire State
エンパイアー・ステイトのベランダから椰子が見える
Aceite
賛成して
Minha canção hemisférica
俺の半球形の歌
A minha voz na voz da América
おれの声はアメリカの声
Cantei-te, ah
君に歌ったんだ
Amei-te
君が好きだったんだ
Cantei-te, ah
君に歌ったんだ
Amei-te
君が好きだったんだ




この訳で合っているかどうかわかりませんし、
最初のパラグラフに
より一層引きつけられてしまいますが、
何はともあれ、
インフラは大事だと思います。



A Ponte、島に橋 その2

先日の記事「痛い目に遭っちゃ駄目だよ」での「人を呪わば穴二つ」、で思い出した。いや、先にこちらの記事を拝見したからかもしれないが、いつもこの言葉を思い出すようにしてはいる。元はC先生のブログでご紹介されていました。


廣宮孝信さんの「国の借金」新常識ブログ(top)
ことわざでわかる経済入門 2012.7.4




インフラの重要性
石丸好助翁 山口県粭島に私財を投じて、水道の整備をしたり、橋を架けたり、公共施設を造って貢献された方
青年会館 (石丸氏が北洋漁業で活躍された函館市の市史余話から)は、モダンな建築だったようです。

以前、山口出身の方から、石丸好助氏のお名前だけ聞いたことがあり、検索してびっくりしました。
税制が変わるまでは、石丸氏だけではなく地方の資産家は、郷土のためにインフラを整備し、学校を建てたり、学費の面倒をみてあげたり、福祉にといろいろと尽くされていたようです。私は、あまり知らないことが多いです。


工事中

2012年7月7日土曜日

箱は楽しい 小さな桐箱にオスモ


桐箱など木箱があれば、色を塗って小物入れにすることがあります。

今日は、ペパーミントグリーンで塗りました。







下はエボニーです。

食卓近辺で、
スプーン立てや、
調味料入れにして使っています。

小物入れといっても、
我が家はあまり物がないので、
空っぽのままが多いです。

そういえば、昔、家具屋さんのHP(今は閉鎖)に
こんなことを書いたのでした。


「箱は一番小さな家具」


縦にしても横にしても、棚の上に置いても中に入れても、
その辺に気ままに置いても大丈夫。
片付けているような出しているような、使っているような仕舞っているような、
でも決して目障りにはならない箱の面白さ。
箱好きな方が多いのもわかります。


そうでした、そうでした。

その辺に空っぽのままでも
おいておきます。


あっ、
板一枚の棚、これも立派な家具でした。



*箱は、小松こんぶの空き木箱です。
 塗料はオスモ。スポンジなどに含ませて塗り、ボロ布で拭き取ります。
 スポンジも、梱包材に使われていたものを使用しています。

*家具屋さんのHPといっても、無料ブログと同じで、写真と文章を放り込むだけの簡単なものでした。


2012年7月6日金曜日

七夕(星の静寂 O Silencio das estrelas LENINE) 楽譜通りに弾けますように

明日は七夕、笹もないけれど、ピアノのお稽古がよたよたとしながらも続けられていることに感謝して、また、基本を忘れないように、書き留めておこう。






楽譜通りに弾く

息をしてから弾く
(弾く前に曲想とテンポを思い浮かべる
フレーズに合った息をする)

次の音の準備をしてから弾く

止まらず休まずに終わりまで弾く

ということができますように






最近、打鍵の仕方とか脱力とか、ワンフレーズ取り上げて細かく先生から注意を頂くことが減っている。もう、私は最初の段階でつまづくのである。義務教育のおかげで楽譜は読めるのだが、楽譜通りに弾けなくて、というか楽譜を無視して弾いている。目が悪いので、かなり拡大コピーしているのだが、見えていないというより、見ていない。意識して弾いていなかったら、見ていないのと同じである。


レッスンではこんな感じ。
一通り、自分でも下手さ加減に嫌になりながら弾き終わると、先生から、指摘を受ける。
「弾く前に曲想を思い浮かべて、テンポに合った息をしましたか」
「はーい、そこ、行きがけの駄賃で弾かない」
「小石をあっちこっち落とすように音を置いていかない」
「指を鍵盤に適当に置いてみて、押さえたら合っていた、ラッキー、って感じ?(に聞こえます)」
「音を前に出しましょう、進めましょう」
「水たまりが前にあるのに、どうして入ってしまうのですか。うわ、入っちゃった、てへ、なんてやっている場合じゃないですよ」
「ピーポーピーポーって救急車みたい」
「よろめきながらも平均台を渡っていて、ああ、やっぱり落ちちゃったかでしたね」


先生のレトリックは、もっと素晴らしいのにお伝えできなくて残念だ。
先日から弾けずに困っていた曲を練習しながら気付いたこととか、いろいろ、また次回で。


箱と曲(夫のブログ)では、「Lost in the stars」から一曲、取り上げているようだが、私は、レニーニの「A Ponte」にしよう。橋、である。


と思ったら、ちょうどよいのが見つからなかったので


Lenine
「O silencio das esterlas」
星の静寂



歌詞と訳は→☆(箱と曲)より
転載しました。


Solidão, o silêncio das estrelas, a ilusão
孤独、星の静寂、幻
Eu pensei que tinha o mundo em minhas mãos
手の中に世界を持ったように思った
Como um deus e amanheço mortal
神のように、しかし夜が明ければ死すべき者
E assim, repetindo os mesmos erros, dói em mim
そして、そんなふうに同じ間違いを犯すことで辛くなる
Ver que toda essa procura não tem fim
こんな願いのすべてには終わりがないと分かっている
E o que é que eu procuro afinal?
すると、結局求めているものは何なのだろう
Um sinal, uma porta pro infinito, o irreal
合図、無限に通じるドア、現実ではないもの
O que não pode ser dito, afinal
結局何も言うことができない
Ser um homem em busca de mais, de mais...
より多くのものを求める人間なのだから
Afinal, feito estrelas que brilham em paz, em paz...
結局穏やかに穏やかに輝く星のように
Solidão, o silêncio das estrelas, a ilusão
孤独、星の静寂、イリュージョン
Eu pensei que tinha o mundo em minhas mãos
手の中に世界を持っているように思った
Como um deus e amanheço mortal
神のように、しかし夜が明ければ死すべき者
Um sinal, uma porta pro infinito, o irreal
合図、無限に通じるドア、現実ではないもの
O que não pode ser dito, afinal
結局何も言うことができない
Ser um homem em busca de mais...
より多くのものを求める人間なのだから




2012年7月4日水曜日

痛い目に遭っちゃ駄目だよ

今年は、私はまだのんびりとしていられる。家族のことで、今のところ心配するようなことがない。もちろん、こういった御時世だし、生まれてから今まで、それなりに〜だし、書いている矢先に、遠方から連絡が入ったり(大丈夫だったが)、今年は既に慌てふためいたことが幾つかあったのを思い出したが、そこは省略。普通普通。


家族のことで心配をするといえば、やはり、子どものことが一番である。幼稚園に入園してから先は、親である私も、もう一度苦手な集団教育や学校生活を体験(追体験?)することになり、学校も昔とはかなり違うので、とまどうことも多かった。


また、うちの子どもは私に似てお調子者で、それが短所でもあり長所なのだろう、腹が立つこともあれば、本当によく耐えて頑張ってきたと褒めてやりたいと思うこともあった。
腹が立つときは叱り飛ばしたし、子どものいないところであれこれ思い出しては、「この子も、ちょっとは痛い目に遭えばいいのに」と思うこともあった。


痛い目に遭って少しは学習をすればいいのに、というわけだけれど、結局、回り回って痛い目に合うのは親のほうだと分かった。


人を呪わば穴二つである。


「苦労は買ってでもさせろ」というのは間違いで、苦労は放っておいても向こうからやって来ることが多く、まして、こんな世の中だもの、ただでさえ暗いのだから、出来るだけ子どもの幸せを祈ることにした。
私は世話好きではなく、子どものためにと走り回ることはなかった代わりに、祈ってやるくらいが親子関係として釣り合いが取れているのかなと思うのだが、これは言い換えると、口は出すが手は出さない、ということだろうか。
それに、祈るのも心配するのも紙一重で、あまり上手に出来なかった。母親である私の学習能力も低かったのである。


こんな母親でなければ、この子は幸せだろうにと思い悩まなかったことはないのに、私はいつのまにか、のび太のママみたいになっていた。


ともあれ、今度から、上手に幸せを祈ってみよう。



ところで、追体験した学校教育のことだが、昨日、最近のPTAの役員を決めるときの話を拝見した(*安東さんのブログ)。
自分の頃はどうだったかと振り返るまでもなかった。PTA役員ができるかどうか、毎年事前アンケート調査が配られ、それを参考にして前役員さん達が調整しながら、保護者会で何とか役員を決めたのが、ありありと蘇る。だけど、拝見した記事と比べると、もうはるか昔のように思われた。
今は、さらにシビアだ。
みんなの前で説明しにくい家庭の事情というものが、切実である。
いろいろと思うことがあるのだけれど、また今度。
私自身は、一人一回は役員、ということで経験したが、よい経験だったと思う。皆さんお忙しいので、余計な集まりもなかった。あとは、役員さんが用事があるときに会議に代わりに出たり、文化系の催しに時折出席した。体育系は、運動できる体ではないのでパス。少しは学校や皆さまのお役に立てて嬉しかったが、○○長という責任者はとてもじゃないが、出来なかったと思う。




*安東英子さん 片付け・収納・リフォームブログ
      「素敵な暮らしの扉」住まいの空間プロデューサー(top)
      PTA活動2 2012年7月3日


いつも余所様のブログを勝手に引用させてもらって、すみません。
私には書けない内容のことばかりなので。






2012年7月2日月曜日

昔は豊作貧乏と言っていたのでは、と、影の続きは光

節電のため、暑苦しくて長居をしていられないところがある。お客さんがすぐ帰ってしまってもいいのだろうか。
まあ、節電はともかく、コスト削減はどうだろう。にちぎんのそうさいは、安価でよいものを作ればよいなんて言っていたようだが、コストを削減し、リストラして人件費を削っても、買ってくれる人もいなくなれば、どうしようもない。


ものつくり日本といっても、ものあまりでは仕方がない。昔は豊作貧乏と言ったのではなかったかしら。違うかな。
買ってくれる人がいないで思いだしたが、このブログの最初のほうで載せたカエターノ・ヴェローゾの「ラメント・ボリンカーノ」(ラファエル・エルナンデス作)。貧しい農民の哀歌だった。今度、訳詞を載せてみよう。


今日は、カエターノ・ヴェローゾの「A Luz de Tieta 、Tieta(主人公の名)の光」。
昨日が、マクダウェルの「Shadow Dance」だったので。


カエターノがダンスを踊っているというか、
この曲でも変な動きをしています。
昔から、変な動き、をするそうです。
 
Caetano Veloso
「Tieta」1996 のサントラより
「A luz de Tieta」



シャドーダンスのほうが、自由な感じですね。

歌詞は長いので大まかに。

Todo dia é o mesmo dia
毎日が同じ
A vida é tão tacanha
人生はほんとうに退屈だ
Nada novo sob o sol
太陽の下に新しいものなどない
Tem que se esconder no escuro
暗がりに隠れなければならない
Quem na luz se banha
日光浴をする者も
Por debaixo do lençol...
シーツを被れ

Nessa terra a dor é grande
地上では苦悩が大きい
A ambição pequena
野心も縮んでゆく
Carnaval e futebol
カーニバルとサッカー
Quem não finge
見栄を張らない者
Quem não mente
嘘をつかない者
Quem mais goza e pena
一番楽しみ、悲しむ者
É que serve de farol...
それが灯台の役目を果たす

Existe alguém em nós
我らの中にだれかいるか
Em muitos dentre nós
我ら大勢のうちに
Esse alguém
そんな誰か
Que brilha mais do que
もっと輝く
Milhões de sóis
百万の太陽より
E que a escuridão
そして闇を
Conhece também...
同じくらい知っている

Existe alguém aqui
ここにいる
Fundo no fundo de você
お前の心の奥底
De mim
ぼくの心の奥底に
Que grita para quem quiser ouvir
耳を傾ける者なら誰にでも叫ぶ
Quando canta assim...
彼がこのように歌うとき
Toda noite é a mesma noite
毎夜が同じ
A vida é tão estreita
人生はなんと窮屈なのか
Nada de novo ao luar
月光の下に新しいものなどない
Todo mundo quer saber
みんなが知りたがる
Com quem você se deita
お前がだれと寝るか
Nada pode prosperar...
何もうまく行かない
É domingo, é fevereiro
日曜日だ、二月だ
É sete de setembro
九月七日だ
Futebol e carnaval
サッカーとカーニバル
Nada muda, é tudo escuro
何も変わらず、すべてが暗い
Até onde eu me lembro
ぼくが覚えている限り
Uma dor que é sempre igual...
ずっと同じ苦悩
Existe alguém em nós
我らの中にだれかいる
Em muitos dentre nós
我ら大勢のうちに
Esse alguém
そのだれかは
Que brilha mais do que
もっと輝く
Milhões de sóis
百万の太陽より
E que a escuridão
そして闇を
Conhece também...
同じくらい知っている
Existe alguém aqui
だれかがここにいる
Fundo no fundo de você
お前の心の奥底
De mim
ぼくの心の奥底に
Que grita para quem quiser ouvir
耳を傾ける者には叫んでいる
Quando canta assim...
彼がこのように歌うとき

Êta!
エータ
Êta, êta, êta
エータ、エータ、エータ
É a lua, é o sol é a luz de tiêta
それは月、それは太陽、それはティエータの光
Êta, êta!...(2x)
エータ、エータ

このサントラアルバムから、もう一曲。

「Miragem de Carnaval」
歌はZeze Mottaで、ゆったりと。





備忘録 Shadow Dance 影の踊り

小さい頃、空を見上げて、この空は本当に空なのかと思ったことが何度もあった。
わたしが見ている青や緑色は、他の人にとっても同じ色なのだろうか。
(魚住直子さんの『クマのあたりまえ』という短編集の中に、このことがわかりやすく書かれていた)
前世とか、来世とか聞く度に、心配になった。
前世がアメーバだったらどうしよう、来世が海辺の防波堤にいる変な虫だったらどうしよう。
その他、いろいろ。
昔、ご近所に輪廻転生について話す方がいらっしゃって、わたしのような未熟者は、あと2万回は生きないといけない、なんて顔を見ては言ってくださるのだった。もう引っ越されて、おかげさまで、わたしの寿命は延びた。


今は、ネットで同じようなことを考えていた人がいるのを知って嬉しいけれど、読むには長すぎる。


オカルト板だそうですが、2チャンネル  世界は自分しか居ないって知ってた?



ところで、マクダウェルのシャドウダンス。とても楽しい曲。
マクダウェルは、「野ばらに寄す」という有名な曲があって、わたしにはどうしても馴染めない曲だったような気がするのだけれど、他にもたくさん作曲をしている。
「合唱音楽 聴いたり弾いたり振ったり」さんのピアノ音楽探索記マクダウェル






MacDowell
 op.39 12の練習曲より
Shadow Dance
影のダンス



わたしは、よく自分の影がちゃんと付いているか
確かめることがあります。
影を売り渡す話とか、
何かそんなのを読んだ記憶があって。


耳も確かめます。
悪魔には耳が無かったのかな。
活躍している人たちの耳は立派で大きく、
情報を集めるように出来ているようで、面白いです。
わたしの耳は、
頭にへばりついた頑固型。