さて、その苦手な曲を練習しているとき、突然、楽譜を見るってこういうことか、と体感できた日があった。もちろん、普段も楽譜を見て弾いているのだが、好きではない曲を弾くときは、実際、ろくすっぽ見ていない。
人間は、関心のないものには、ことごとく冷淡である。扱いが邪険である。
例えば今回、のどかな恋のメロディという曲想についていけず、泣く泣く練習するようになったときは、完全に関心がなくなって、どうでもいい感じだった。
もう自分がどんな音を出しているか聞いていないので、間違った音を出していても全く気がつかない。
先生が目を丸くして、
「もう長い間弾いているのに、初めて楽譜を見たみたいに弾かないでください」
「今、違う音を出したのに気がつかない?古典期の曲だから、和音が違ったらすぐ分かりますよね」
私のほうこそ、びっくりである。
「え?、間違えていましたか。自分の出している音を聞いていませんでした」
「頼むよ〜」と、先生は絶句された。
「わ、それ、家でもよく言われるんです。でも、頼まないでください」
と、終いには、知っていても知らないふりをしてしまう関係になっていた。隣にいる人が明らかにボタンを掛け間違えておかしな格好をしていても、黙っているようなもので、そもそも関心が持てない。
そんなある日、どうしたことか、嫌だとか苦手だとか思わずに練習できた日があった。
そのとき、楽譜の音符というより音が見えたというか、今弾いている音の次に、これまで気がつかなかったけれど、こんなところにこんな音符があったのね、と見えたり、ある音符を弾いた後で、その出した音が聞こえるし、前の音も次の音も見えてメロディーとしてつながったりした。
リズムも感じ取れた。感じるだけで、実際には楽譜通りには弾けなかったが、とにかく、一音、一音が目に入って、音楽が流れて聞こえてきた。
こんな有り難い奇跡は一度だけで、その感動も長続きはしないが、次のレッスンでは、先生はさすがに変化を感じ取ってくださった。
ところが、人間は意識をし始めると、これまでの態度とは打って変わって、そわそわしたり、細かなことが気になってきたりするものである。
私は、弾きながら今度はぎくしゃくしだした。一節一節に注意を傾けては、自分の出すがさつな音に、ひいと後ろに退いては恥じ入った。
「何ですか、その挙動不審は」と先生があきれていらっしゃる。
我ながら、地球人のふりをしていたことがばれてしまった宇宙人のような動きだと思う。
それでも、ここまでお近づきになったのなら、何とか上手に弾けるようになってもいいのだが、結局、まあ、挨拶は交わすが、おつきあいはない隣人みたいな感じになっている。すべては記号で意味がないと思えばいいのかもしれない。
ともあれ、どんな曲でもいい、一度でいいから、楽譜通りに弾けるようにしよう。
「Men In Black」で
sugarを欲しがるEdgar
バーチャル・リアリティの研究開発を巡るミステリーです。
主人公ではありません。
13F(1999年)
trailer
映画「ウエストワールド」(5/27記事)といい、
バーチャルだろうと遊園地だろうと、
前世や来世であろうと、
人間のやりたいことは変わらないと思います。
場所を変えて、違うゲームをしているだけなのかも。
バーチャルだろうと遊園地だろうと、
前世や来世であろうと、
人間のやりたいことは変わらないと思います。
場所を変えて、違うゲームをしているだけなのかも。