2012年3月29日木曜日

久しぶりに見る文字化けのようなタイトルだけど

前回記事のレナード・コーエンの「Sisters Of Mercy」で思い出した。イタリアのアンジェロ・ブランドゥアルディAngelo Branduardi)である。
元々は、もっと前にアンジェロの曲をアップする予定だった。
ベネディクトゥス聖ドロテアに続いて、次は聖フランチェスコの番で、聖フランチェスコといっても、一時期私が勝手に「セント・フランチェスコの人」あるいは「フランチェスコおじさん」と呼んでいたアンジェロのことである。


というのは、アンジェロのアルバムで聖フランチェスコをテーマにしたアルバムがあり、直截的で品がないけれど、一種の屋号みたいな感じで、私はアンジェロをそう呼んでいた。


そのアルバムは宗教的といっても重々しくなくリズミカルで、アンジェロの声がマッチして、独特な感じが印象に残る。聞いていると不快ではないがそれほど好きというほどでもなかった。それよりも一体この人は何だろう、と不思議だった。どの曲もよく似ていて、アルバムの中で1,2曲好きなものがあればいいほうだと思う私は、iTunesのリストに残しておく曲を選ぼうとして、選べなかった。つまりよく出来たアルバムなのだと思う。
と思ったら、何曲か削除していた。せっかくだから、また全部聞き直してみよう。


動画が上がるようになってから、アンジェロを見ると、他のCDに見られる若々しいアルバムジャケットとは違って、もう白髪になっている。それでもふさふさと盛り上がっている。ライブの動画は楽器を見られるので面白いのだが、歌はスタジオ録音の方が聞きやすい。
それに、ライブの動画を見ると、いっそう癖のある人に見えるし、何だかちょっと偉そうにも見えたりする。だけど、やはり何とも奇妙なことに、ずいぶん気になって何度でも聞いてしまう。
いかにもイタリアの歌手のように、絶唱したりしないところがいいのかもしれない。
そうだ、この人は大人のおじさんのような声でもなく、日本人の若い男性歌手のような声でもない。繊細な吟遊詩人と評されるのはそういうわけかもしれない。


話は最初に戻るが、レナード・コーエンで何故思い出したのかというと、アンジェロの曲に「Il Sultano Di Babilonia E La Prostituna」というのがあって、YouTubeで検索すると、「バビロニアのスルタンと淫婦」とタイトルが自動翻訳されていた。淫婦、昔はサイトを開いたら文字化けしているものがあって、気持ち悪くなったのを思い出した。



Angelo Branduardi
L'INFINITAMENTE PICCOLO 」(2000)から
 Il Sultano Di Babilonia E La Prostituna

(バビロンのスルタンと遊女)



フランコ・バッティアートとのコラボだそうです。
元気が出ます。
短いし。

動画のヴァージョン違い
Angelo Branduardi  Versione in Greco






 Il Tratta Dei Miracoli



曲目
1. Il Cantico Delle Creature
2. Il Sultano Di Babilonia E La Prostituta
3. Il Lupo Di Gubbio
4. Audite Poverelle
5. Divina Commedia, Paradiso, Canto Xi
6. Il Tratta Dei Miracoli
7. Nelle Paludi Di Venezia Francesco...
8. La Regola
9. La Predica Della Perfetta Letizia
10. La Morte Di Francesco
11. Salmo


ゲストにバッティアート、マドレデウス、エンニオ・モリコーネなど

2012年3月26日月曜日

和食が出てこないスクラップブックとSisters of Mercy

春の女神は麦の穂を持っている。


麦というと、「いしいしんじ」の小説『麦ふみクーツェ』を思い出す。
先日まで、この本は私のお気に入りだった。最初、借りて読んだとき、麦踏み用の靴を履いた人「クーツェ」に慣れなくて妙に読みにくかったし、たくさんのねずみや陰気な数学者であるお父さんが息苦しくて読むのが面倒になって、飛ばして読んだところもある。主人公「ねこ」が島の吹奏楽団で打楽器として発する「にゃあ」というかけ声も好きではない。
だけど、「ねこ」と楽団、「ねこ」が音楽修行中に出会う人たちが魅力的で、終盤の章は弾みが付いて楽しかった。音楽、特に合奏の楽しさが溢れ出てくる一冊である。
とても気に入ったので、そのあと同じ作家の『プラネタリウムのふたご』を借りて読んだ。サーカスのクマの話が出てきて、ちょうどシューマンの連弾曲「クマの踊り」を弾いていたときで、ぴったりとイメージが合った。でも、後は覚えていない。


それからだいぶ経ってしまったが、この間、図書館でいしいさんの『ポーの話』を借りてみた。ところが、読み始めると気持ち悪いというより居心地が悪い思いがしてきた。主人公の名前がポーというのはともかく、”メリーゴーランド”とか”ひまし油”とか、主要な人物にはあだ名のような名前がついているのに、その他大勢には全く名前が出てこない。これは、ひょっとして村上春樹か、とふと思い当たった。


その上、クーツェもそうだったがポーもどこの国かわからないような設定で、人間も街の様子も、まるで宮崎駿の「魔女の宅急便」のようだ。国籍が無印の人間が綺麗な街に住んでいる感じ。試しに「似ている」で検索してみたら、皆さまがたのレビューがいろいろと参考になって面白かった。


ということで、クーツェにも冷めてしまった気がするのだが、もう一度手にとって再読し始めると、演奏のヒントは満載だし、楽しいことは楽しい。
この本の中では用務員さんがゴシップ雑誌の記事を切り貼りしてスクラップブックを作っていた。それを「ねこ」が引き継ぐ。この小説の中の人物やそれぞれにまつわる人生のからくりも、そのスクラップブック記事が土台でもあるので、それらをうまくプロットにまとめた小説なのだろう。でも、和食が出てこないスクラップブック、空気が外国なのだ(本当に出てこなかったか確かめなきゃ)。


そういえば、村上春樹のエッセイ『スクラップブック』を読んだことがあるが、別のエッセイで読んだ、うさぎ亭という定食屋さんのコロッケとお漬け物の話を覚えている。でも、村上春樹はもう20年近く読んでいないし、これからも読むことはないと思う。

そうそう、いしいさんのHPで「げてものごはん」と名付けていたページがあった。クリックして開いた途端、写真を見てのけぞってしまった。レインボーロールというネーミングだったかな、青や緑色のカラフルな豚肉ロールカツが並べられていた。衣に色素を混ぜて揚げているのだった。


いや、これはもうだいぶ昔のことでよく覚えていないし、今はHPが変わって見あたらない。




Leonard Cohen
トリビュートアルバム「Tower of Song」(1995)から
Sisters of Mercy

Sting&The Chieftains



CDの解説にはスティングがこの歌を
「売春宿の歌だ」って言ったと書いていました。
よく知りませんが、
外国の歌や小説には
よく売春宿の話が出てくる気がします。
どんちゃん騒いで楽しそう。
『クーツェ』では、
「ねこ」がチェロ弾きの先生と共に売春宿に行って、
物語を聞かせます。
その設定に既視感がどうしてもついてまわるのですが、
世の中すべて既視感と情報の共有で出来ているような気もするし、
まあいいかなと。いちいち言うことではないのかも。


2012年3月22日木曜日

春の女神

春分の日も過ぎた。夜明けは早く、日はどんどん長くなっている。ただ、毎年春のお天気は急に冷え込んでは荒れるので、着る物に困る。例年そうだと分かっているはずなのだが、毎年自分の顔かたちが、ちぐはぐと変わるのだもの、ある日突然、今まで着ていた服が合わなくなる。





Gjallarhorn
「Sjofn」(2000)より

Suvetar
(Goddess of spring)



Gjallarhornはフィンランドのグループですが、
スウェーデン語圏地域出身なので、

昔、テレビでデンマークの映画を見かけたことがある。暗い映画でスウェーデンから職を求めてデンマークに移住してくる人たちの話だった。泥水をすするような貧しい生活をしていたように思うが、最初のほうしか見ていない。どうやら「ペレ」(1987年、デンマーク・スウェーデン合作)という映画らしい。
そういえば、この間、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を読みかけていたのだが、主人公アクセルが伯父のリーデンブロック教授とアイスランドに旅したときに宿泊先でふるまわれた料理は、保存食を更にお漬け物にしたのかと思うような書き方をしていて、本当に貧しそうであった。

寒いところは、何はさておき太陽エネルギーが豊かではなくて、いわゆる土地の生産性が低いため、暖かいところに比べて2倍も3倍も働かないといけないと思う。

天気が悪い日は家事をするのにも、エネルギーと時間を倍使っている。




春の星座 乙女座  一等星スピカ(麦の穂先)を持つ農業の女神デーメーテール
★アイスランド ビョークと地熱・水力発電の国(日本の技術が生かされているらしいです)。経済破綻、火山噴火でいろいろあったけど、北極圏再開発地区、通貨安で経済V字回復とか、検索すれば見出しがいろいろ目につきますが、記事を読めばそんなに甘くないようです。
★北欧諸国はさて、どんな国々なのだろうか。増税に次ぐ増税で住みにくそう。
 スウェーデン 銀や銅の不足により、ヨーロッパで最初に紙幣を発行したそうです。
                     スウェーデン国立銀行(wiki,jp) 世界で最も歴史のある銀行だそうです。
       今はキャッシュレス化が進んでいるようです。



2012年3月17日土曜日

椅子の話

「シャルロット・ペリアンと日本展」の続き。


ニワトリは三歩歩けば忘れる、というけれど、美術館を出て散歩がてら、ぐるりと一回りしたら、はて誰の展覧会だったかと思い出せなくなった。本当です。最近、こんなことばかり。
「ぺ、ぺ、ペイリン。あ、これは前アラスカ知事だった」。
でも、共和党のサラ・ペイリンさんしか名前が出てこない。仕方がないので、入場券を見て確かめた。ペリアンさんだった。でも、頭の中にペイリン→ペリアンという回路が出来てしまった。


さて、今日は、展示の目玉であった竹製シェーズロングについて。






美術館HPより


ペリアンが来日した1940年、翌1941年の日本では物資が乏しく、金属の代用品として竹が用いられたらしい。家具の素材としては、竹よりも籐のほうが、折れないし、ささくれないし、撓る(しなる、弾力性がある)し、製作する側にも使用する側にも勝手がよいように思う。
だけど、日本では熱帯雨林地域の植物である籐は育たないから、竹になったのだろう。ペリアンさんはよくぞ竹で作ったものだ。


籐ついては、知り合いの家具屋さんが籐家具を長く扱っているので、ちょくちょく話を聞かせてもらっている。シェーズロングではないが、籐の寝椅子は人気商品で、三つ折りにしてコンパクトに収納出来るものがあるし、カタログからも注文できる。
とても格好いい籐の寝椅子を写真で見せてもらったことがある。籐家具の展示会をしたときの写真であるが、HPにも載せていない。


私が寝椅子の写真を撮影したものはないかと探してみた。私はお客さんに手渡すカード作りをときどき頼まれて作っていて、素人ながらお店の写真を撮ることがある。店内の写真を撮ってブログに載せられるようなお客さんは、ほとんどいらっしゃらない。ご遠慮されているのだろうが、たまに積極的に載せてくださっている方もいらっしゃる。
さて、格好いい寝椅子の残念ながら無かったので、代わりに下の写真を載せておこう。


籐家具は和洋どちらの部屋にも馴染む、不思議な家具。




家具屋さんにて



手前の椅子が前回記事の「さんぼんあし」です。
左はラタンのカウチ。
大人でも十分横になれます。


★シェーズロングについて詳しい構造イラスト画→アトリエかわしろ生活館

2012年3月14日水曜日

三本脚の椅子

「シャルロット・ペリアンと日本」展の続き。


シャルロット・ペリアンの三本脚の椅子
low stool



画像は、dumilo&DECOR HPからお借りしています。



我が家にも三本脚の椅子がある。テーブルの下にスッと入るし、小回りが利いてよい。
重さもあるのだが、踏み台代わりにすると意外と安定が悪くて危ない。それだけは要注意。



「クリケットスツール」(飛騨産業)
でも、さんぼんあし、と呼んでいます。



豆苗の再収穫を試しています。


メーカーのHPカタログ写真では少しも面白くありません。
家具屋さんでの、この椅子の写真は
次の投稿にあります。

また、撮り直してみます。


青い絨毯に白い魚

日差しも明るくなってきた、休日は外へ出てみようということで、広島市現代美術館の「シャルロット・ペリアンと日本展」に行ってみた。



ペリアンが描いたA4サイズくらいのデッサンやスケッチが、イラスト画のように可愛いかった。一枚のデッサンに2,3箇所、ちょっとだけ色を付けていて、センスがよかった。こういうデッサンは販売しても売れそうだ。他にも横長のサイズで子どもが描いた絵もよかった。

青い絨毯があった。マリンブルーではなくて、もっと深い色だった。館内の暗いところで見たので、ミッドナイトブルーというのか、黒に近い色に見えた。そこに、白い線で絵が描かれていた。水兵が甲板にチョークで魚などを描いた絵を写真に撮って、それをデザインして絨毯にしたものらしい。水兵さん、絵が上手すぎ。画像が見つからないのが残念。こんなラグなら欲しいなあ。


「比治山スカイウォーク」
美術館付近から山の斜面に設置された
エスカレーターと動く歩道で、
東側の町に出られます。

初めてスカイウォークの写真を撮ってみました。
清水寺みたいに定番のアングルです。


先は明るいはずなのですが
トンネルみたいですね



今度ゆっくりと撮ってみます。


★広島市現代美術館と周辺 センチメンタルプライスさんというかたの
★水兵さんの絵が採用されたときの話で思い出したのが、
「i Webでお気軽ホームページ」さんのリンク先にあった、「70億分の1の世界」管理人カジさんが大阪大学産業研究所のロゴデザイン募集に応募されて見事当選されたときの例。
カジさんもi Webの更新を停止し、ブログへ移行されたようです。勝手にご紹介してすみません。i Webについては、当ブログ→。


2012年3月10日土曜日

外へ出て元気を出したい

このページにも明るい春が欲しい。ということで、画像やらお出かけお勧め記事をお借りすることにした。


東京大学総合研究博物館小石川分室の「驚異の部屋展」







ご紹介されていました。

海外インテリア好き必見!H.P.DECO的趣味のルーツはここにあった

前編・中編・後編の三部作


以下の写真は、今回の展示品とは違いますが、




画像はLyndieさんHPからお借りしています。

こういうのがいっぱいのようです。
画像をお借りしたLyndie Dourtheのオブジェは、
「ワタシのちゃんぷるライフ」さんという方のところで知り、
(下の方にある2011.2. 7の記事)
去年、プロコフィエフの「キノコの話」続編を
私が勝手に考えて書いていたときに、
挿絵代わりにしていました。
ちゃんぷるライフさんの同じページには、
ブラジルのジュエリーブランド、H,Sternのアリスシリーズで、
あの有名な芋虫とアリスの一幕もあり、
これらの写真もどうにか挿絵に出来ないかと欲張っていました。


いろいろ見るだけで元気が出ました。
それにしても、小石川分館、いいところにありますね。
 




2012年3月9日金曜日

100年前に100年先を行く

ドイツの無声映画「メトロポリス」(フリッツ・ラング監督、1927年)がパブリックドメインで公開されていると聞いて、ちょぼちょぼ見ている。
YouTubeでは画面がひしゃげているので、俳優も横に押しつぶされて見えるし、無声映画なので絶え間なく音楽が流れているのも疲れる。


特に、主人公のフレーダーが気持ち悪く見える。モノクロで且つ無声映画だと、メイクと演技を過剰気味にしないと、フィルムにも観客にもイメージとストーリーが焼き付けられないようだ。
フレーダーの父親であり指導者階級の頂点に立つフレーダーセンは、この動画では、ひしゃげているはずなのに、端正で格好いい。


「SF映画の金字塔にして最高峰」と言われるだけある。1927年によくあんな映画が作れたなあと、感心する。現代の都市と変わらぬ摩天楼がそびえ、そのビル群の間を縫って飛行機が飛び、都市高速みたいな道路も縦横に巡らされ、車が絶えることなく流れていき、繁栄を感じさせる。コンピューターもどきのシステム管理や監視カメラもあった。


およそ100年前に100年先が見えていたとは。

地上の都市部を支える動力部となっている地下では、下層階級の労働者がシフト制で働き、当然使い捨てにされていて陰惨なのだが、描写は淡々としていてセットは凝っている。
マリアとアンドロイドの二役をやった女優ブリギッテ・ヘルム。「YOSHIWARA」で踊るシーンは、官能的というかエロティック。DVDでちゃんと見る価値はありそう。









100年前に100年先のイメージを創り出せるなら、今の私も、何か先のことを今の時点で創り出せないだろうか。10年後にはまだ実現できていなくても、実現のために準備を進める、というだけでもいい。


そういう意味では、日常生活においても、洋服を選んで着たり料理を作ったりと、先に出来上がったものをイメージしてから動いていることもたくさんあるわけだが、それに加えて何か違うことを思い描いてみたいと思う。
自分広告でも作ってみようかな。未来に釣られる自分が今のところ何もないのは残念だから。


10年後に備えて、そのために今を我慢するとか、老後に備えてばかりでは面白くないもの。


★メトロポリスの紹介とレビュー「喫茶ぱらだいすあーみー」さん(セーラームーンの画像が出ます)の派生雑学に進んで、最後の記事
★同じくレビュー 「良い映画を褒める会」さん 第一部、第二部他記事いろいろ

2012年3月6日火曜日

Fabrizio De AndreのAnime Salveより「Dolcenera」

イタリアのファブリツィオ・デ・アンドレの「Dolcenera」。これは、ファブリツィオの最後のアルバム「Anime Salve」(救われし魂、1996年)の中の一曲で、私は、女性コーラスから始まり、同じくコーラスで終わるこの曲が好きである。アコーディオンが切ない響きを奏でる中、ファブリツィオが畳みかけるように歌う、「Anime Salve」の中でも強く印象に残る曲である。
でも、ジェノバ方言が混じったこの歌は何を歌っているのか分からなかった。語学に堪能な人たちに聞いてみても、分からないと言われた。単語や文法が分かれば、意味が通っていく文章ではないらしい。これはメタファーに満ちた詩であり歌であり散文でもあるので、何を意味しているのか測りかねるようだった。


ところが、YouTubeにファブリツィオ・デ・アンドレの曲もたくさんアップされるようになり、この曲には洪水のシーンが合わせて付けられているので、驚いた。動画の説明やコメントを見て、ようやくこの曲は、1970年10月7日と8日にジェノバを襲った大洪水を歌ったものだとわかった。
ファブリツィオが生まれ育ったジェノバは、何度も洪水に見舞われているそうで、昨年11月にも大洪水が起きている。


洪水とは意外も意外だったが、これで一挙に詞の意味がわかるかもと期待した。だが、そんなに簡単なものではないようで、ファブリツィオの曲の中でも、最も深遠で難解な詞の一つだと書いてあるコメントあった。
検索しては、Google翻訳を頼りにあちこち読んでみた。迫り来る洪水の状況とともに、恋人たちの話が平行して語られているようだ。アンセルモの妻と彼女に恋人する男。ところが、大洪水とこの二人の愛が暗示するものが何か、その肝腎なところが分からない。アンセルモの妻は恋人に会いに家を出たようなのだが、洪水に巻き込まれて会えなかった。だが、男の頭の中では、彼女が来てくれているところを夢想しているらしい。 
ファブリツィオ自身がコンサート中にこの曲を解説したものが、Anime Salve」(イタリア版ウィキ)の中にある。だけど、そのGoogle翻訳を読んでもわからない。また、ファブリツィオの息子のクリスチアーノが、昨年11月の洪水被害に見舞われた市民のためのショーで、この曲を解説している動画もあるのだが、イタリア語が分からない。早い話がイタリア語を勉強すればいいのかな。


音楽は心で感じられる部分に加えて、やはり言葉の理解や背景にあるテキスト(歴史、文化)があれば、見えてくるものがあったり、共感が深まっていく。だけど、私はこの曲の深遠なところには行き着けなくても、それでまあいいかなと思っている。
まずは、歌がドラマで良かった。繰り返し聞いても、曲が終われば、その都度、目に見えていた光景は消えてなくなってしまう。いつまでも終わらない悪夢ではない。そしてまた何度も聞くと、だんだん見えてくる光景も変わってくるかもしれない。



途中経過で、いつ解釈のどんでん返しがあるか分かりませんが、
友人の訳やGoogle翻訳を参考にしてまとめた、
次の訳詞を掲示しておきます。

Fabrizio de andre
「Anime Salve」
Dolcenera



ライブ





Amìala ch'â l'arìa l'aria cum'â l'é
見て、やってくる、どんな様子?
amiala cum'â l'aria amia ch'â l'é lê ch'â l'é lê
どんなふうに来るか見て、あれでしょ、あれね
amiala cum'â l'aria amìa amia cum'â l'é
どんなふうに来るか見て、どう?
amiala ch'â l'arìa amìa ch'*a l'é lê ch'â l'é lê
見て、やってくる、あれよ、あれよ

Nera che porta via che porta via la via
黒い水が運び去る。通りを運び去る
Nera che non si vedeva da una vita intera
生まれてから今までに見たことがない黒い水
cosí dolcenera nera
ほんとうに黒いドルチェネラ
Nera che picchia forte che butta giù le porte
強くぶつかる黒い水、ドアを破る黒い水


Nu l'è l'aegua ch'à fá baggiâ
あくびをさせるような水じゃない
imbaggiâ imbaggiâ


Nera di malasorte che amazza e passa oltre
限界を超えた災いの黒い水
Nera come la sfortuna che si fa la tana
災いの黒い水
dove non c'è luna lunaNera di falde amare che passano le bare


Âtru da stramûâ
 nu n'á â nu n'á

Ma la moglie di Anselmo non lo deve sapere
しかし、アンセルモの妻は知らなくていい
che è venuta per me
私のために来てくれたことを
è arrivata da un'ora
1時間前から来ている
e l'amore ha l'amore come solo argomento
独り言のように愛には愛がある
e i tumulto del cielo ha sbagliato momento
天災は時を間違えた


Acqua che non si aspetta altro che benedetta
予想もしなかった水、祝福されるものではない
Acqua che porta male sale dalle scale
水が階段から塩水を運んできた
sale senza sale
塩のない塩水
Acqua che spacca il monte che affonda terra e ponte
山を崩し、大地も橋も沈める水だ

Nu l'è l'aegua de 'na rammâ
'N calabà 'n calabà  


Ma la moglie di Anselmo sta sognando del mare
しかし、アンセルモの妻はまだ海の夢を見ている
quando ingorga gli anfratti si ritira e risale
彼が隙間に物を詰めて水を止め、上がっている時
el il lenzuolo si gonfia sul cavo dell'onda
波頭の上でふくれるシートに
e la lotta si va scivolosa e profonda
奮闘するのだが足を滑らせ水に深く沈む

Amìala cum'â l'arìa a,ìa cum'â l'é cum'â l'é
amiala cum'â l'aria amia ch'â l'é lê ch'â l'é lê

Acqua di spilli fitti dal cielo e dai soffitti
天から降るくさびのような水
acqua per fotografie per cercare i complici da maledire

水、写真を見れば呪いの共犯者が捜せる
Acqua che stringe i fianchi tonnara di passanti

通行人の脇腹を締め付ける水


Âtru da camallâ
 nu n'à â nu n'à


Oltre il muro dei vetri si risveglia la vita
ガラスの壁を越えると彼を目覚めさせる

che si prende per mano
手を使って掴んだ命は
a battaglia finita
戦いを終えた

come fa quiesto amore che dall'ansia di perdersi
ha avito un giorno la certezza di aversi


Acqua che ha fatto sera che adesso si ritira
bassa sfila tra la gente come un innocente
che non c'entra niente
fredda come un dolore Dolcenera senza cuore

無慈悲なドルチェネラ


atru da rebellâ
 nu n'à â nu n'á


E la moglie di Anselmo sente l'acqua che scende
そしてアンセルモの妻は水がひくのを感じた
dai vestiti incollati da ogni gelo di pelle
ずぶぬれになった服から
Nel suo tram scollegato da ogni distanza
電車 遠く
nel bel mezzo del tempo che adesso le avanza
cosí fu quell'amore dal mancato finale
cosí splendido e vero da potervi ingannare



Amìala ch'â l'arìa l'aria cum'â l'é
見て、やってくる、どんな様子?
amiala cum'â l'aria amia ch'â l'é lê ch'â l'é lê
どんなふうに来るか見て、あれでしょ、あれね
amiala cum'â l'aria amìa amia cum'â l'é
どんなふうに来るか見て、どう?
amiala ch'â l'arìa amìa ch'*a l'é lê ch'â l'é lê
見て、やってくる、あれよ、あれよ




2012.1.26
昨年11月ジェノバの洪水被害に
見舞われた家族のためのショーで