2012年2月29日水曜日

つんのめる2月の終わり

普通の年は2月が、28日しかない。月末は慌ただしいものだと分かっているものの、他の月で25日くらいまでは、もう1週間あると余裕があるのに、2月はその調子でいって、二日も三日も足りないと不意打ちをくらってしまうことがある。


これとよく似た感じというと、私の進歩しないピアノの弾き方がそうかもしれない。レッスンで、先生からいつも、小節の最後の音符の長さが短いと指摘される。
「音楽がどんどん前倒しになって、つんのめってますよ。慌てずに十分時間を取って次の音を準備してください」と何度も注意してくださるが、2月の終わりも何だかそんな感じがする。何も片付かないまま、3月になる。
閏年の今年は、1日おまけをもらったようだ。でも、のんびりと構えていると、音価が付点分伸びたようなもので、これもまた「伸ばしすぎ、(気持ちが)休んでますよ」と注意されるのと同じかもしれない。前倒しも駄目だし、先延ばしも駄目。今、必要な音を弾くのは難しい。


そんな2月の終わりの今日は、お遣い物の焼き菓子を買いにケーキ店へ寄った。清潔感あふれる店で、ショーケースの中の小さなケーキが、どれもくっきりと美しい。音楽で喩えると音の粒が揃って立っている、となるのだろうか。
さて、そのお店の焼き菓子なのだが、実は自分ではあまり食べたことがない。このあたりはいい加減で申し訳ないが、ギフトの焼き菓子については、どこも美味しいだろうし、まずは用途が優先であっちのお店、こっちのお店と変える場合がある。みんなで分けやすいものがあるお店、街中でいつでも買える店よりは地元のお店、気の張らない方へのお店など。でも、私はお店の情報には疎いのと、今日行ったお店の佇まいと店内の清潔感が好ましくて、そちらに寄ることが多い。


店員さんがリボンをかけながら、賞味期限の確認を聞いてきたのをきっかけに、つい前々から気になっていたことを尋ねてみた。製造日のことである。正直、お店の人を少し気を悪くさせたと思うが、売っている焼き菓子はすべてその日に作ったものです、と明るくきっぱりと答えてくれた。
私はそれを聞くと、安心して差し上げられるとほっとした。焼いてから数日経って、味が落ちたものは嫌だなと思っていた。日本のパティシエの水準は高いだろうけれど、賞味期限の問題はあると思う。
帰りがけに、お店の方が笑顔で、これはお早めにどうぞと小さなチョコをくださった。


その食べ頃のことなのだが、簡単な焼き菓子なら、自分でも作ることもあり、レシピには食べ頃についても書いているが、洋菓子店で買うときも気にするようになったのは、「フランス菓子塾 ケーキの寺子屋」さんのHPで<焼き菓子の食べ頃>を読んで以来のことである。お菓子によって寿命は違うけれど、寿命が切れたお菓子は味がぼやけて落ちる、と書かれていた。
フィナンシェやマドレーヌなどの焼きたての味と48時間後の美味しさの違いも書かれていた。仰るとおり、自分で焼いたときに出来たてを食べてみると卵の香りが立つので失敗したかなと思うのだが、外側がカリッとして美味しいし、食べ頃の時間帯になってくるとしっとりと馴染んできて美味しい。


「ケーキの寺子屋」さんは、同じタイトルの本があるらしいが、その著者とは別の方。今日、久しぶりに拝見したら、ビスキュイについての記事があった。要約させてもらうと、ビスキュイは一般的に卵黄と卵白の別立て式で作ると言われている。だが、ビスキュイとはスポンジケーキの総称であって製法は二種ある。
ジェノワーズ(暑いジェノバのジェノバ風ー温かい製法、共立て式のホットスポンジ)
ヴィエノワーズ(寒いウィーンのウィーン風ー冷たい製法、別立て式)。
だそうだ。


ご存知の方には何ということはない話かもしれないのだけど、ちょうど、ジェノバで生まれ育ったファブリツィオ・デ・アンドレの歌詞を調べていたところだったので、私はこの小さな巡り合わせが嬉しかった。昨年、11月にジェノバでは洪水が起きて、惨状が日本にも伝えられたが、日本もイタリアも早く暖かくなればいいのに、と思う。暑く、暑く。アイスクリームが溶けるほどに。暑くなればなったで、冬が恋しくなるけど。


明日から、3月。2月末のせわしさはどこへやら、どーんと3月は現れてくる。




デミタスカップより
少し大きいくらいのケーキです


2012年2月25日土曜日

ネーブル


八朔やネーブルなど柑橘類が
美味しい季節です。
もう少し少なめに盛ったほうが
きれいに見えるでしょうか





コンポートは西川孝次さんです。


2012年2月23日木曜日

東宝映画『日本誕生』

去年の今頃から3月初めにかけて、私は、昭和34年の東宝映画『日本誕生』のDVDを借りてきて、繰り返し見ていた。家事をしながらだったので、切れ切れに見ては途中から見直していたが、だんだん引き込まれ、ラストは感無量だった。


最初は古い日本映画に慣れていないせいか、とまどっていた。演技力とか、映画の作りというものを元々気にしない質だが、古事記の国産みから始まるこの映画で、登場してきた神様たちは貧相である。神々しさがない。次に景行天皇の時代に場面は変わって、主役である三船敏郎が演じるオウスノミコト小碓命(後の倭健命)が登場する辺りは「マンガ日本の歴史」のようだ。ヤマトで生活を営む村人たちや、その村人たちに慕われて若さと希望に満ちて歩いているミコトといい、単純明快で、これは学芸会なのかと気持ちは引いてしまう。次から次へと当時のスターが現れてくるのだが、失礼ながら、皆大根役者かと思ってしまった。


だが、それは大スペクタクル映画と銘打たれたゆえのことであって、壮大な物語の中で人間は台詞を言う人形のようなもので構わないと、だいぶ後になって思った。少し極端な言い方だが紙芝居風でいっこうに構わないのだ。そして、明朗で優しくて、且つ兵を率いてくリーダーを演じるには、せせっこましい人間では駄目なのだろう。三船敏郎のスケールの大きさ、というものが他に出演した映画も知らないのでピンと来なかったが、そういうことなのかと段々分かってきた。
伊勢の巫女オトタチバナヒメ弟橘姫(司葉子)が登場すると、これはまあ綺麗で美しい。禊ぎのシーンでは清らかに透き通った水と弟橘姫の美しさに、ここ一番の人間の生気を感じる。そういえば、オウスノミコトの叔母であり、伊勢の斎宮である倭姫命(田中絹代)がミコトを励ます会話も情愛が溢れて、神の地の伊勢で人間らしいシーンというと矛盾するが、心にしんみりと残る。


西の熊襲討伐から帰って来たばかりのミコトが、父の景行天皇から東征を命じられて気落ちしているときに、神話が挿話として、二つ続く。まず、天照大御神の岩戸隠れの物語がある。天照大御神には原節子が適役で、日本人離れというか、ある意味、如何なるものでもない感じが天照大御神にぴったりだと思う。
ここで、最初の貧相な神様たちとはまた別物の神様たちが登場してくる。高天原の神様たちの容姿はてんでバラバラでまさに八百万だった。オウスノミコトの一番の従者で八雲というかなりの二枚目がいたが、この人が神様ではリアリティに欠いていただろう。
そして、誰もが知っている岩戸開きの大宴会では、アメノウズメ天宇受賣命(乙羽信子)が天岩戸の前で踊って盛り上がり、とことん笑う神様たちはみんな阿呆だと思った。アホで笑う、これが神様なんだと妙に感心してしまった。
アホなのだから、心配がない。憂えるものがない。心配しないから何も嫌なことは起こらない。だから神様なのだ。アホになって笑ってさえいれば、いい。
昨年見ていたときは、このアホの神様たちには大いに励まされた。
それとこのシーンでは音楽が面白かった。東征のときも、煙を上げる富士山を眺めるミコトに民が披露する「火の山の國の踊り」、これはワールドミュージックかと思えば、月夜に響く笛の音は寂しく切なく、音楽が非常によかった。音楽担当は昨年亡くなった伊福部昭さんだったそうで、私はこの大作曲家をそれまで知らなかった。


八岐大蛇と須佐之男命(三船敏郎二役)のエピソードでは、やたら大きい大蛇が出てくる。映画の特撮担当は円谷英二であるが、パソコンで映画を見たので、この大蛇の凄さがあまり分からなかったし、大蛇に立ち向かうスサノオの剣捌きも妙に見える。
そこかしこで、この映画は何だか思っていたのと違う、と感じるが、自分が最初に何を期待して見始めたか大した理由もない。それなのに、次第に映画に魅せられていくのは、ヤマトタケルノミコトが少しも幸せになっていかず、最初の明朗さや一本気とは打って変わって、疲れ果て打ちひしがれる姿が哀しいからだ。
オトタチバナヒメは海の神に身を捧げてミコトの窮地を救うが、「ヤマトはくにのまほろば」と帰って来たミコトには行くところがない。映画の初めでは中身がないように見えたほどのミコトは、だんだんと哀しみが詰まって等身大の人間になっていく。弟の若帯日子命を推す大伴氏の軍に追い詰められていくラストでは、何か奇跡が起こらないかと期待するのだが、矢を討たれて死に絶えてしまう。それが白鳥となって舞い上がっていくと、山が噴火し溶岩が流れ、大伴氏の軍を焼いた後、湖の水が押し寄せていく。力のこもった特撮と、ミコトの思いに胸が打たれる。


ところで、私は一年経って、去年はこの映画を見ていたと思い出したのだが、アホになっていないのに気がついた。アメノウズメミコトのように踊れるかと言われたら踊れない。高天原の神様たちのように阿呆にもなっていない。まとめて言えば、踊る阿呆になっていなかった。神への道は遠い。





2012年2月19日日曜日

家具屋さんで


火鉢にあたらせてもらいました。


静かな午後


春を待って




2012年2月14日火曜日

Anime Salveとハドリアヌス帝の詩

animula vagula blandula 
hospes comesque corporis 
quae nunc abibis in loca 
pallidula rigida nudula 
nec ut soles dabis iocos!

 彷徨う愛しき小さな魂
我が体の客であり、伴侶
汝はこれからあの場所へと向かう
青ざめ、こわばり、衣を脱ぎ捨て
これまでの楽しみはもうないのか




ハドリアヌス帝が死の直前に読んだとされるラテン語の詩です。
家人が訳してみました。
目にする訳の大部分は、第4行の形容詞三つが第3行の終わりの「場所」に掛かります。
ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』を訳した多田智満子さんは、冒頭にその一般的な解釈をとり
「青ざめ こわばり 露わなるあの場所に」訳されています
でも、
後書きでは上記のような「魂」に掛かると解釈する可能性にも触れられています。
Wikipedia(J)でも、場所ではなく、魂に掛けています→ハドリアヌス 3.最後の詩。
この項を書かれた方が参照にしたのが藤澤道郎氏の『物語イタリアの歴史Ⅱ』だそうです。藤澤先生の「皇帝ハドリアヌスの物語」は、こちらから読めます。訳詞は3ページ目。
                 


ハドリアヌス帝は、確かアテネオリンピックの時に、NHKで「ローマ皇帝の歩いた道(後編)」を見て、その政治手腕、建築のセンス、ティボリの別荘、複雑とされる性格に惹かれました。
その後、気になって検索しましたが、それに当たる番組の感想を書いた人はいなくて覚え間違いかと思っていました。昨年、また検索すると、何度も再放送をしていたことがわかりました。


ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』は一時期持ち歩いてこつこつと読んでいました。文学作品としては素晴らしく、実は大変思い出深い作品でもあるのですが、あの特集番組のほうが、ハドリアヌス帝は強く印象が残っています。
『テルマエロマエ』というヤマザキマリさんのコミックにも、ハドリアヌス帝は登場します。
ファブリツィオ・デ・アンドレのanime salveと共に思い出される詩です。




Fabrizio De AndreのAnime Salve

魂の話。
体も精神も脆弱な私には魂は無いような気がしていた。
仮そめの幻の魂で、浮遊している。
でも、ファブリツィオの詞で、生き生きと蘇ってくる、気がする。

崇高な精神も深遠な精神も上下の縦軸を横軸に変えたら、同じレベルなのかも。
魂に優劣はなく、浮遊もしていない。
目に見えているものが魂に沿って浮遊してくれているのかもしれない。
先日、ひなあそびの記事をサイトの別ページに保存しなおしてみた。記事内の「自分がしつらえた空間で台詞や擬音でにぎやかに、心はかえって寡黙になって無心に遊ぶ人形劇」と いうのは、現実に見えるこの世で、自分が役に没頭して演じていることと同じなのかもしれない。ファブリツィオの歌詞にある「魂の美しい仕掛け」、それくらい何か楽しいものが自分にあればよいのだが。


ファブリツィオ・デ・アンドレの「Anime Salve」
家人が訳した歌詞を転載しています。
元はこちら→★同じ訳詞です
間違いがあるかもしれません、随時直します。
イバーノ・フォッサーティとのデュエットです。






Anime Salve
救われし魂

Mille anni al mondo mille ancora
この世界に千年、さらに千年
che bell'inganno sei anima mia
我が魂よ、おまえはなんと美しい仕掛けなのか
e che bello il mio tempo che bella compagnia
私の時代はなんと美しいのか、なんと美しい仲間たちがいるのか


sono giorni di finestre adornate
飾られた窓から見える日々よ
canti di stagione
季節の歌
anime salve in terra e in mare
陸と海で救われし魂
sono state giornate furibonde
荒れ狂った日々だった
senza atti d'amore
愛し合うことなどできなかった
senza calma di vento
風は凪ぐことなく
solo passaggi e passaggi
ただ過ぎ去るだけ、そして過ぎ去る
passaggi di tempo
時は過ぎ去る
ore infinite come costellazioni e onde
星座と波のように終わりのない時間
spietate come gli occhi della memoria
記憶の目のように無慈悲
altra memoria e no basta ancora 
他の記憶もあるが、まだじゅうぶんではない
cose svanite facce e poi il futuro 
色あせた物、顔、それから未来

i futuri incontri di belle amanti scellerate 

美しいが邪悪な恋人たちのこれからの出会い
saranno scontri 
衝突が起きる
saranno cacce coi cani e coi cinghiali 
犬や野ぶたとの追いかけ合い
saranno rincorse morsi e affanni per mille anni
 千年の間、走っては噛みつき、息を切らす
mille anni al mondo mille ancora 
この世界で千年、さらに千年
che bell'inganno sei anima mia 
我が魂よ、お前はなんと美しい仕掛けなのか
e che grande il mio tempo che bella compagnia
 私の時代はなんと偉大なのか、なんと美しい仲間たちなのか

mi sono spiato illudermi e fallire 

私は自分を探り、欺き、しくじり
abortire i figli come i sogni 
夢のような息子達を堕胎させる
mi sono guardato piangere in uno specchio di neve 
叫んでいる自分を雪の鏡で見た
mi sono visto che ridevo 
微笑む自分を見た
mi sono visto di spalle che partivo 
立ち去りながら背中合わせの自分を見た
ti saluto dai paesi di domani 
明日の国から君にさよならを言う
che sono visioni di anime contadine
 百姓の魂のビジョンだ
in volo per il mondo
 世界を飛び回っている

mille anni al mondo mille ancora 

この世界で千年、さらに千年
che bell'inganno sei anima mia 
我が魂よ、お前はなんと美しい仕掛けなのか
e che grande questo tempo che solitudine 
この時代はなんと美しいのか、なんと寂しいのか
che bella compagnia
 なんと素晴らしい仲間たちなのか



2012年2月12日日曜日

明日は夏になればいいのに はなさんの巻き寿司

巻き寿司専門店「はな」さん。
華々しい巻物はなく、海苔とごはんの白黒のように、さっぱりと安心なお店。
だけど、
お寿司用のごはんを使ったチキンライス、
野菜のオードブル、変わったネーミングのサンドイッチなどメニューに並ぶ。
残念ながら、まだ食べたことがない。今度の楽しみ。
昔、
風が強く吹く日に行ったことがある。
春のお彼岸の頃だったか忘れたが、
あっちへ転がりこっちへ転がりしそうなくらい吹き荒れていた。


今日は、もうすぐ春だなあと、
日ごとに強さを増してくる日差しが気持ちの良い日。

でも、寒いから、
明日は夏になればいいのに、
と毎日思うこの頃。



巻き寿司専門店 はな さんで、
巻いてもらっている間、
きゅうりの辛子漬けを味見させてもらいました。
作り方を教えてくださったので、
家でも作ってみました。

2012年2月11日土曜日

エネルギーは固まらない

福岡は博多でインテリアコーディネーターをしていらっしゃる方がいる。


ブログを拝見するだけで、元気が出てくる。
自分とはまったく正反対のものに惹かれるというか、ご本人の華やかさ、仕事や生活へのエネルギッシュな感じが、固まることなく、すかっとしていて気持ちがよい。


それを手が届かない世界だとか、私には御縁が無い世界だとか言って、自分の前に仕切りを立てるのはよそう。
台に上がって手を伸ばせば、戸棚や冷蔵庫の上には、届く。ガスや電気の点検などで作業員の方が来られるときは、目線、身長より高い所を拭いて、にわか掃除のポイントにしている。


さて、その方は「Loisir ゆとりの時間 広瀬順子」さん。ブログを拝見するばかりでお会いしたこともないが、何といっても、美人である。


今回、ブログを拝見して吹き出したのがこれ。




Loisirさんのこの記事で元気が出たのだが、お友だちでも知り合いでもでもないのに、勝手に載せたうえに、私はタイトルを「笑う門には福来たる」にしてしまった。不躾な気がして、しばらく記事を引っ込めていた。また、勝手にアップするのだけど。
エネルギーを外に出すと、体も柔らかくなるような気がする。

追記 i WebのHP

セノオ楽譜のうさぎマークは、「i Webで作成 |お散歩浪花編 |日々の雑記」さん(美術・映画系のサイトで下の方にYouTubeマイチャンネルの入り口がある、これがまた不思議)で知ったのだが、
i Web(アイウェブ)というのは、MacのHP簡易作成ソフトである。

文章を書き込み、写真をiPhotoから引っ張ってきて入れるだけで、すぐにHPが作成できる。パソコンに関しては検索しかできない私が、それを使ってHPを作ったことがあった。
知人の家具屋さんを手伝ってHPを作ってみたのだが、大変不評で、動きが重い、フリーズする、なかにはご自分のパソコンが壊れそうだと仰る方もいた。
試行錯誤の末に、HPは一年で更新を休止することとなった。
世界的にもユーザーには評判が芳しくなく、もはや絶滅寸前に近いかもしれないが、時折アップルのアイコンのサイトに遭遇すると嬉しくなる。

今にして思えば、テキストも写真も好きなように画面構成できる便利なソフトだった。「i Webでお気軽ホームページさんのサイト」は懇切丁寧で、全くパソコンの知識がない私は、よく参考にさせてもらった。そちらのリンク先の一つが、「i Webで作成 お散歩浪花編 日々の雑記」さんである。

レニーニを検索していたときに、出会ったi Webで作成されたHPが、
TAMAGOのみちくさ@BRASILさん(i Web)でブログは「ぶらじり庵」(FC2)。
ブラジルにお住まいで、たくましく、へこたれずで丸いたまごのようになられたようだ。レニーニのライヴレポートやレニーニのテレビ出演の様子などを有り難く拝見したが、
レニーニファンでi Webと、二重に嬉しく、歓声を上げてしまった。

2012年2月10日金曜日

竹久夢二によるセノオ楽譜表紙

うさぎの聞きかじりとは言っても、あまりうさぎには思い入れがない。というのは、私は前歯が大きくてウサギに似ているからで、自分に精一杯だからだ。ただの齧歯類かもしれない。だが、一度うさぎにこだわったことがある。
10何年前のことだが、ある人が葉書をくれた。何でも、知り合いがこれから自然食品や雑貨を扱う店をオープンするとかで、うさぎのロゴが付いていた。それがうずくまった兎で顔が小さくて耳は長く左右に跳ね上がっていた。自分のスタンプにして、あちこち押して回りたいくらいだった。
葉書を持って訪ねてみると、ひっそりとした佇まいの小さな店の中に、背が高く色の白い女性がいて、そっと静かに応対してくれた。うさぎに相応しいと思った。私はねずみで十分だった。

以来、油こしのフィルターや調味料を買いに行くことがあったが、お店のオープン時間に合わせて行くのが難しかった。残念ながら最後に寄ったとき、もうすぐお店をお休みする予定だと言われた。ネットで販売されていたのもその時初めて知ったが、サイトにはあのうさぎのロゴはなかった、と思う。

うさぎのロゴといえば、セノオ楽譜のうさぎマークが有名で、竹久夢二が表紙のイラストなどを手がけていたらしい。i Webで作成 お散歩浪花編」さんのサイト(マークの大きな画像があります)。

追記 i Webは6月末で終了したので、お散歩浪花編さんのサイトはご覧いただけません。


画像は京都国立近代美術館から

竹久夢二とセノオ楽譜で検索すると、いろいろと知ることができて、無知な私は勉強になった。セノオ楽譜(国立音大PDF)。竹久夢二伊香保記念館館長ブログ(2008.10.20)、同ブログ展示内容のご案内「文学」7(2008.10.23)夢二の「点灯屋」の詩。

「遊行七恵の日々是遊行」さんが、高畠華宵と竹久夢二を楽しむ(2006.10.20)」に楽譜とうさぎマークのことを。昨年京都国立近代美術館で開かれた川西英コレクション収蔵記念展・夢二とともに」の感想では、うさぎマークの小さなことまで見ていらっしゃった。

今、気がついたが、私はもう、何かの動物に似ているなどという年ではないのだった。

2012年2月8日水曜日

Slow ClubのTwo cousins、Les Rita Mitsouko

この間、突然目に入ってきた曲です。
浮遊感溢れるのに、
耳について離れません。


Slow Club
Two Cousins
2011年



こちらはパワフルな
Les Rita Mitsouko
Y'a d'la haine
1993年


2012年2月7日火曜日

迷うのも楽し、ミュラーオオタニさんのハム

とある土曜日のこと。美味しいハム屋さんがあると知り、思い立って行ってみた。こんなふうに店の評判を聞き、探して出かけるのは滅多にないことなのだが、どうしても行きたくなった。
それも前夜にネットで見たからとは、ずいぶんダイレクトな感じで恥ずかしい。だが、店にはダイレクトには着けず、少し迷った。評判通り、かなり分かりにくい場所にあった。
国道沿いの道標を兼ねた看板は、近隣に配慮してか目立たなくて、看板元のざっくばらんな駐車場に先客が車を停めた後を追うように付いていった。

お店も、先に外観を予習していなければ分からなかったところだが、想像以上に感じがよかった。雑多なものが置かれていたが、押しつけがましい雰囲気はなく、まったく肩が凝らない。それをいいことに、私はあれこれ見て回った。ほんと、私は不躾な一見さんで、こういうことこそ恥を知らなければならないだろう。黒いアップライトのピアノもあった。

リレーをしているかのように順にお客さんがやって来た。我が家は先客の女性二人組とも後からいらっしゃったご夫婦ともお話をした。どちらもご近所から来られていて、ネットで評判を聞いてと言う私に、嫌がるどころか、ご自分たちの店であるかのように嬉しそうにハムやベーコンの話をしてくださった。椅子も勧めてくださった。
こうして互いに自然と話を交わしながら、頭の中では皆一生懸命、どれを幾ら買うか考えているのだけど、それがまた、幸せな感じがしてくる。自宅用にお裾分け用にと迷いながら選び、次のお客さんのことも頭の端っこで考えている。機嫌良くなれるお店だった。

買いやすい少量パックがある、お値段がリーズナブル(街中ではなく、店主一人で製造・販売をしているから)、店主が本当に感じのよい方でお客さんも感じがよい、といいことづくめ。可愛いイラスト付きのリーフレットも楽しい。我が家は少量パックを買って帰った。

店内と工房はこんな感じです。ぴょんきいさんのブログ(2009.5.18)
店主 オオタニさんのお写真あり。
現在、水・木・日が定休日。

写真がよくありませんが、
ハムとタマネギのサラダ


国道横の側道で道を確かめていたときに、わざわざ回り込んで停まり「追突されますよ」と親切に教えてくださったかた、ありがとうございます。

2012年2月5日日曜日

リストのSancta Dorothea

続いて、ベネディクト16世方式で思い出すのは、ドロテアという名前だ。
リストのSancta Dorotheaという曲があって、聖ドロテアは何者かと検索したときに、


「ドロテア」という人名は、「doron(贈り物)」と「theos(神)」という意味を持つギリシア語名「Dorotheus(ドロテウス)」の女性形。英語名なら「ドロシー」になる。もちろん、ドロテアという名前の聖人もいて、四世紀の殉教者、聖ドロテア(ドーロテア、もしくはドロテーア)といいます。引用元デジタル・クワルナフさん(top) の2007年11月26日の記事内→★


と知った。オズの魔法使いのドロシーはドロテアだったのかと驚いた。
そうそう、チョコレートはテオブロマ=神様の食べ物だそうで、なるほどテオは神の意である。

聖ドロテアはこんなかた。絵が美しい。→★Megurigami Nikkiさん2006年10月28日の記事


リストのこの曲は清らかで美しく優しい。殉死するドロテアの運命も暗示する。
私は、自分でも弾ける短くて、さらっと綺麗な曲を探していて、フランツリストの回想さん」の紹介記事に、この曲が「神秘的で美しい、短いが繊細で音の膨らみがある」と言われているのに惹かれて、楽譜と音源を探した。


楽譜は無料楽譜サイトIMSLPからダウンロードしたが、後で、全音楽譜ロマン期名曲集下巻に編纂されているのがわかった。
いつも、素人の手探りの中から偶然、よい曲を見つけたと喜ぶのだが、既にずっと前から楽譜があるのを知って、みみっちくも自分だけのものではなかったと、「減り」を感じることがある。最初からそういった名曲集から探せば楽でよかったかなとも思う。でも、ネットならではの出会いがあるから楽しい。


Franz Liszt
Sancta Dorothea
S.187(1877)



この曲を練習していたときは、動画がほとんどなくて、
かなりゆったりとしたテンポで弾く、
Alvaro Ordonezさんの動画 が印象的でした。


*上記Megurigami Nikkiさんのサイトに、教皇名ベネディクトの元となったヌルシアのベネディクトゥスが設立したモンテ・カッシーノ修道院の記事(2006.6.10)があります。
*「フランツ・リストの回想」さんのページは、トップページのサイドバーから『ピアノ独奏曲』を開いて、VOL.7 <詩的で宗教的な調べ>に進みます。
*2月6日は聖ドロテアの日。

よく話す16世

前の節分にまつわる記事で、言葉巧みな人はどうなのだろう、と書いて思いだした人がいる。


第265代ローマ教皇ベネディクト16世である→Wikipediaヨーゼフ・ラッツィンガー前枢機卿ヨハネ・パウロ2世の後を受けて教皇に選出され、ベネディクト16世として就任したとき、ベネディクトってどういう意味だろうかと、家のものに尋ねた。
Benedict、beneはbon、dictは話す、だから、よく話す、上手に話す人だね」
と言われて、なるほどと思った。
「上手に話す、うまく言う、口が上手い、口達者」
ふふふ。benediction 祝福というよりは、こちらのほうが頭に入る。


でも、こうして書いていると、ベネディクト系の言葉を祝福、元のベネディクトゥス Benedictusを「幸いなるかな、祝福がありますように」と訳した人のほうが、凄いような気がしてきた。
口下手な人に、つっかえつっかえ極めて曖昧に祝福されるより、「大丈夫」とひと言、体にも心にもすとんと落ちるように祝福された方がいい。後はすべて天に委ねればよい、のかな。


私はしどろもどろタイプで、ピアノのレッスンでも先生によく指摘される。音が前に出ずに意味不明で、どこに向かっていっているのか分からないと仰る。
そうそう、私は、ポケットに手を入れて品物を確かめ、Aさんに「差し上げよう」と取り出して腕を伸ばしかけて、「いや、Aさんは好きじゃないかもしれない、Bさんに上げた方がいいのかも」と宙をさ迷って再び手をポケットに入れてしまうというような、面倒くさい奴である。
何だかんだ言って、けちなのかもしれない。

2012年2月3日金曜日

Antonio Fragosoのプレリュード

アントニオ・フラゴソ(1897年~1918年  →Wikipedia)は、若くして21歳で亡くなったポルトガルの作曲家。


昨年の冬、それとも一昨年の冬だったか、私は「7 PreludiosのV,5番」を練習していた。
1ページの短い曲。


寒い日の夜に
Antonio Fragoso
7 Preludiosから  V  Calmo.



こちらのほうが、
音が聞きやすいかもしれません。
Vは7:50くらいから




Miguel Henriquesさんがピアノを弾かれている動画
(MrDinizsantosチャンネル)もあります。
ノイズが少し入ります。

2012年2月1日水曜日

節分 そこにあると思えば出来てしまう

もうすぐ、節分だ。明くる日は立春。旧暦では年初の頃だが、私には一年でいちばん注意を要する怖い時期だ。節分という文字通り、節目にこつんと当たってつまづくように、何かがちょっと変わる。突然、体調を崩すだけならいいけれど、しばらく些細なトラブルが続いたりする。
「ほらね、節分だからね」とひいひいとしながら思う。


だけど、これからは出来るだけ「毎年この頃になると」という過去の法則に従うのはやめようかな。法則というよりは、一種のバイオリズムで、身を低くして無理をせず、やり過ごさなければいけない時期なのだとは思うけれど、節分の頃=トラブルではないかもしれない。突然、体調を崩したりトラブルがあるのは、年がら年中で、自分の不注意や天候不順から発することではないか。


それを、待ってましたと「ほらね、やっぱり節分は怖いわ」と言いたいがために、私は自分で怖いものを作り出して招いているだけではないかと思う。何も無いところからでも、あると思えば、何かが出来てしまう。
そういう負のイメージで、「恐れていたこと、心配していたこと」を現実に作り出すのは得意なのだけれど、いいものを作り出すことには全く慣れていない。簡単なのかもしれないのに。
言葉巧みな人はどうなのだろう。言霊で自分の人生自由自在なのだろうか。


まあ、節分、立春と春を暦では迎えるとはいえ、2月は一年で最も寒い時期なので、体調には気をつけようとは思う。そうそう、元々は四季や一年の節目毎に邪気を払う、いい機会なのだろう。


ところで、まんが日本昔話に節分と鬼の話があって、「節分の鬼」は、最初の語りが面白い。おっかあと一人息子に先に死なれ、一人で村の外れに暮らすおじいさんと、村の人たち疎遠になってしまった様子がよくわかる。



もうひとつ節分と鬼の話があった。「節分の福鬼」。どちらにも共通なのは、「福は外、鬼は内」と半ば自棄ではあるが威勢良く豆まきをして、鬼を家に招き入れてしまうようになるところ。厚くもてなせば、鬼も福の神に変わる。もともと鬼も神も違いはなかったかもしれないが。