2012年2月23日木曜日

東宝映画『日本誕生』

去年の今頃から3月初めにかけて、私は、昭和34年の東宝映画『日本誕生』のDVDを借りてきて、繰り返し見ていた。家事をしながらだったので、切れ切れに見ては途中から見直していたが、だんだん引き込まれ、ラストは感無量だった。


最初は古い日本映画に慣れていないせいか、とまどっていた。演技力とか、映画の作りというものを元々気にしない質だが、古事記の国産みから始まるこの映画で、登場してきた神様たちは貧相である。神々しさがない。次に景行天皇の時代に場面は変わって、主役である三船敏郎が演じるオウスノミコト小碓命(後の倭健命)が登場する辺りは「マンガ日本の歴史」のようだ。ヤマトで生活を営む村人たちや、その村人たちに慕われて若さと希望に満ちて歩いているミコトといい、単純明快で、これは学芸会なのかと気持ちは引いてしまう。次から次へと当時のスターが現れてくるのだが、失礼ながら、皆大根役者かと思ってしまった。


だが、それは大スペクタクル映画と銘打たれたゆえのことであって、壮大な物語の中で人間は台詞を言う人形のようなもので構わないと、だいぶ後になって思った。少し極端な言い方だが紙芝居風でいっこうに構わないのだ。そして、明朗で優しくて、且つ兵を率いてくリーダーを演じるには、せせっこましい人間では駄目なのだろう。三船敏郎のスケールの大きさ、というものが他に出演した映画も知らないのでピンと来なかったが、そういうことなのかと段々分かってきた。
伊勢の巫女オトタチバナヒメ弟橘姫(司葉子)が登場すると、これはまあ綺麗で美しい。禊ぎのシーンでは清らかに透き通った水と弟橘姫の美しさに、ここ一番の人間の生気を感じる。そういえば、オウスノミコトの叔母であり、伊勢の斎宮である倭姫命(田中絹代)がミコトを励ます会話も情愛が溢れて、神の地の伊勢で人間らしいシーンというと矛盾するが、心にしんみりと残る。


西の熊襲討伐から帰って来たばかりのミコトが、父の景行天皇から東征を命じられて気落ちしているときに、神話が挿話として、二つ続く。まず、天照大御神の岩戸隠れの物語がある。天照大御神には原節子が適役で、日本人離れというか、ある意味、如何なるものでもない感じが天照大御神にぴったりだと思う。
ここで、最初の貧相な神様たちとはまた別物の神様たちが登場してくる。高天原の神様たちの容姿はてんでバラバラでまさに八百万だった。オウスノミコトの一番の従者で八雲というかなりの二枚目がいたが、この人が神様ではリアリティに欠いていただろう。
そして、誰もが知っている岩戸開きの大宴会では、アメノウズメ天宇受賣命(乙羽信子)が天岩戸の前で踊って盛り上がり、とことん笑う神様たちはみんな阿呆だと思った。アホで笑う、これが神様なんだと妙に感心してしまった。
アホなのだから、心配がない。憂えるものがない。心配しないから何も嫌なことは起こらない。だから神様なのだ。アホになって笑ってさえいれば、いい。
昨年見ていたときは、このアホの神様たちには大いに励まされた。
それとこのシーンでは音楽が面白かった。東征のときも、煙を上げる富士山を眺めるミコトに民が披露する「火の山の國の踊り」、これはワールドミュージックかと思えば、月夜に響く笛の音は寂しく切なく、音楽が非常によかった。音楽担当は昨年亡くなった伊福部昭さんだったそうで、私はこの大作曲家をそれまで知らなかった。


八岐大蛇と須佐之男命(三船敏郎二役)のエピソードでは、やたら大きい大蛇が出てくる。映画の特撮担当は円谷英二であるが、パソコンで映画を見たので、この大蛇の凄さがあまり分からなかったし、大蛇に立ち向かうスサノオの剣捌きも妙に見える。
そこかしこで、この映画は何だか思っていたのと違う、と感じるが、自分が最初に何を期待して見始めたか大した理由もない。それなのに、次第に映画に魅せられていくのは、ヤマトタケルノミコトが少しも幸せになっていかず、最初の明朗さや一本気とは打って変わって、疲れ果て打ちひしがれる姿が哀しいからだ。
オトタチバナヒメは海の神に身を捧げてミコトの窮地を救うが、「ヤマトはくにのまほろば」と帰って来たミコトには行くところがない。映画の初めでは中身がないように見えたほどのミコトは、だんだんと哀しみが詰まって等身大の人間になっていく。弟の若帯日子命を推す大伴氏の軍に追い詰められていくラストでは、何か奇跡が起こらないかと期待するのだが、矢を討たれて死に絶えてしまう。それが白鳥となって舞い上がっていくと、山が噴火し溶岩が流れ、大伴氏の軍を焼いた後、湖の水が押し寄せていく。力のこもった特撮と、ミコトの思いに胸が打たれる。


ところで、私は一年経って、去年はこの映画を見ていたと思い出したのだが、アホになっていないのに気がついた。アメノウズメミコトのように踊れるかと言われたら踊れない。高天原の神様たちのように阿呆にもなっていない。まとめて言えば、踊る阿呆になっていなかった。神への道は遠い。