2012年7月28日土曜日

森を見て木を見ず スタッカートに気がつく

執拗に書いてしまう練習記録。認めたくはないのだが、苦手なものに向き合えるようになったほうが、得られるものは大きいようだ。まだまだ少しずつかじっている段階。


苦手というのは、易しい曲だからつまらないのではなくて、優しい曲で自分には合わないから。普通の人なら、3,4日あればミス無く弾けて、半月かひと月で仕上がる曲を、私は半年掛けて練習している。
前回、ようやく、先生に見ていただけるようになった。これまでは、間違った音を出していないか、リズムが変だとか、楽譜から逸脱していないかのチェックであったが、打鍵の仕方や表情のつけかたを、細かくご指導くださる。久しぶりのような気がする。
先生も私への指導にはお疲れのようだけれど、曲に飽きることは決してない方で、いつも真摯に楽譜と音楽に向き合っていらっしゃる。そうえいば、先生というものは、同じことを何度も生徒に教えないといけない職業だなあ。


さて、「木を見て森を見ず」という格言があるが、私が練習している状況は、その反対で「森を見て木を見ず」、一見面白くないけれど、中に入ってみたら結構よかったということかもしれない。
遊園地に入ってみたら、アトラクションが面白くて楽しめたみたいなことだろうか。曲の中からワンフレーズ取り出して練習して、細かなことに気がつけば気がつくほど楽しい。

この間は、スタッカートがたくさんあることに気がついた(一応知ってはいたが意識して弾いていなかった)。初めから先生は、「このスタッカートは軽く切って、次のフレーズへどん」とか、あちこち丁寧に教えてくださっていたのだが、先生がアドバイスしてくださったところ以外に、至る所についている。それがまあ、古典期の曲なので、若い美人が男性をからかって可愛い足を出したり引っ込めたり、爪で引っ掻いたりしている感じがする。長い脚で蹴り上げたりしている現代的なものはない。


先生にこうしたスタッカートのことを話してみると、「違います」。
「ここはですね、男性が、思いが叶わないことに嘆いて、はぁあっ、あぁあっ、と溜息をついているのですよ」
鑑賞力ゼロの私だが、それはそれでまた、どうなんでしょう、と思う。でも、私の気持ちなんか関係なくて、とにかく曲を奏でて演じなければならない。


以後、気をつけてスタッカートを場所に応じて弾いてみると、ちゃんと楽譜に自分が同化していっているようで面白くなってきた。「わたしは嫌だ、嫌だ」の自我が消えて、よい練習になっている。本当に感謝している。
この感謝の気持ちだけでいっぱいで練習した気になっていたのか、次に先生に見ていただいたら、「全然、前と変わっていない」とがっくりされた。筋肉が覚えるまで練習するのが練習だった。

ところで、60年代イギリス4人組も、顔が生理的に好きじゃないからどうしても受け入れがたいものがあるのだが、それはものすごい損らしい。オリンピックの開会式で一緒になって歌えば、大好きになったかもしれない。ー無理はしなくていいかな。ファンからしてみれば、余計なお世話だと言われそう。ほんと、そうだ。


でも、芸能人や有名人でも、間近で見たり、握手してもらったりしたら、一生もののファンになる。たまには敬遠せず、どんどん近づくと手に入るものも増えそう。
私は近眼で、近寄りすぎて嫌がられることもあるが。何だかんだいって、考えても分析しても意味のないことだった。


最後に思ったが、森を見て木を見ずというより、ただの「食わず嫌い」に近い話になってしまったようだ。