2012年4月10日火曜日

足りている人

昔、ある人の本で、中学高校時代を振り返り、美貌の同級生について少し触れていた。大変な美男美女の家系に生まれているので、自分が美人であることに気がつかなかった、という話だった。その数行しか覚えていない。


美人であることに気がつかないというのも鈍感過ぎやしないかと思うが、桁外れの美貌になると、周囲には、いちいち「綺麗だね」という人もいなかったのだろうか。第一、家族から言われないのだし。
こういう美人は、しょっちゅう鏡を見ては自分は綺麗か否か、前より美しくなったかと確かめる必要がない。十分、美は足りている。たぶんこれは、お金持ちが通帳を覗き込んでお金がいくらあるか心配しなくていいのと同じなのだろう。
また、年を取っても、身近な先輩であるお母さん、お祖母さんが上手に年を重ねてきれいであれば、容貌の衰えを気に病むことがない。
美人薄命という周囲のやっかみも混じった運命の圧力とも、こういう人は無縁なのではないかなと思う。

その人は、自分だけではなく、他人の容貌も気にならなかったのではないだろうか。自分も他人も、そのままに見ている、つまり顔にファッションチェックを入れないというか、判断基準の概念もないのだろう。
反対に、鏡をしょっちゅう見ずにいられない人というのは、自分に美が足りないと思って気になっている。過剰なところは不足と同じで美を損なう。その人にとって、まだ美が足りていないところに何かを足してバランスを整えて、美人になる。
でも、そうやって美人になれるのは羨ましい。


そういう美人やお金持ちの、十分足りて何も気にならない心境を一度でもいいから体感してみたいと思っている。だけど、自分はつまらない人間だと思っていても、四六時中そればかり思っていないし、そういうことで思い悩んだとしても、一瞬一瞬途切れなく悩み続けることはできない。空腹を感じたり、眠気を感じたりいろいろ気持ちは忙しい。平常は美人やお金持ちとは何も変わらないのかもしれない。


だけど、美人は周囲の気を高揚させるし、お金持ちは陰でお金を回している。見えない運動量が違うのかもしれない。
何か運動しようかなあ。春だし。