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2012年12月26日水曜日

しがみつかなければ、いつの間にか消えていく

買い物へ行けば、お正月用品が並んでいる。私はお節(平仮名だと読みにくいので漢字で)料理が苦手で、作ったことがない。
お節が苦手なのかお正月が苦手なのか、まあこれは、クリスマスのほうが好きでお正月はあまりと思う人たちも多いだろうし、理由については、くどくどと書くほどでもないが、きっと今から、くどくどと書くだろう。

一応伝統食とされるお節の中で、好きで食べられたのは栗きんとんとか黒豆にごまめくらいだが、私の母が料理が下手だったわけではない。母は年末まで働いていたので最小限のものしか作らなかったが、細かくうるさい人で、材料をどこそこの店で買うようにと町を越えてあちこち回らされた。それこそ、隣のご町内ではなく、隣の市内まで買いに行かされた。

ある年から、とても立派な海老で海老フライを作ってくれるようになった。でも、私達子どもが成人して、時間的に余裕が出来はじめてからは、熱心に普通のお節を作り出したようである。これは、一緒に住んでいる私のきょうだいから聞いた。ただし、自分の好きではないものは入れないようだ。私はあまり帰省したことがないから分からない。

母と同世代の人たちは模範的なお節を作るのが夢だったのだろう。
私はお節の由来などはよく知らないが、もともとは質素な節句料理だったのが、デパートの陰謀で派手になり、お正月にはお節を作るのが奨励された世代なんだと思う。
夫の母も叔母も、「きょうの料理」をバイブルとして一生懸命に作っていた。

でも、昔、新聞の生活欄で見たお正月の神様へのお供えは、本当に簡素なものだったし、神様は新鮮なものしか召し上がらないよ、と私は思うことにしている。
またお雑煮も嫌いではないどころか、お餅は我が家の常備食とまでなっているくらいなのだが、神様に召し上がっていただくため、と思っても年明け早々に食べたくはない。

こんな感じで年末年始に何もせずにいるので、家人から「日本人、やめてしまえ」と罵られる。ほら、だからこのブログでも、12月はいっぱい写真を撮ったりして、暇そうでしょう。

新年を迎えるのは嬉しいが、お正月が嫌なのはどうしてか。もう、夫の実家に行かなくてよくなってから久しく本当に気楽なのに、こうして書いていると、涙が出そうになるほどお正月が疎ましくなってきた。

ああ、この感覚だ。何度もしつこく書いてきたが、私がピアノの練習で苦手な曲を前に、身もだえして涙を浮かべていたときと同じ。あ、もうひとつ、家人のよく聞いている曲を聞き始めた途端、感じる気持ちといっしょ。
ただし今は、苦手だったその曲も普通に楽譜と向かい合って、素知らぬ顔で弾けるようになっている。


さて、あら、どうしたことでしょう、こうあれこれ、くどくどと書いていたら、何故か苦手な気持ちがなくなってきた。
つい数行前の、出そうだった涙はどこに行ったのか。私が消えたのか、お節が消えたのか。まあ、既に開放されているのだから、あれやこれや考える必要はなかったのだ。
ただお正月の過ごし方については、今から家人ともめそうではあるが、それは仕方がないかもしれない。しみついて取れない音楽の嗜好と同じで、お互い様だろう。

でも、私は、のんきに気分良く過ごせそうな気がしてきた。嬉しい。



それにお節にだってよい思い出がある。
昔、同じビルに住んでいらしたピアノのA先生が、片手の掌に載るくらいの小さな小さな三段のお重にお節を詰めて分けてくださったことがあった。私が家族とは別に、一人でお正月を過ごしているので、気遣ってくださったのだった。
先生のお節は上品で本当に美味しかった。
関西は旧家のたいそうなお嬢様だったというA先生は、文武両道でセンスもよく、お料理は特にお上手だった。思えば、摩訶不思議なほどの能力を持っていらっしゃる方だった。

A先生というと、この映画を思い出す。今は、立派なマンションにお住まいだそうで、よかったよかった。




「マダム・スザーツカ」

マダム・スザーツカと少年マネクの連弾シーン。


Schubert
Fantasie in f-Moll





この動画はpart4です。
手前のpart 3の終わりでは、
マネクがトロイメライを弾いています。
それも素敵。

アップしてくださってありがとう。




2012年12月12日水曜日

和やかな発表会で 昔話

大人の手習いで通っているピアノの発表会のことだが、去年は9月の初め頃にあった。発表会に出るのは5年ぶりくらいで緊張したけれど、まず会場に着いて驚いたのは、自分の浦島太郎っぷりだった。

生徒さんもお母さんもお父さんも、若すぎ。どこに身を置いていいか分からなかった。

でも、それから一年ちょっと、レッスンの日時が変わって、前後の入れ替わりで時たま生徒さんやお母さんたちと顔を合わせるようになり、今回の発表会では和やかにご挨拶できた。皆さんの若さと華やかさにも慣れた。

背が高くて今風の若いお父さんたちは、去年はちょっと居心地悪そうで携帯が目立ったが、今年は子どもさんと楽しそうにゲームをしたり、静かに談笑をして会場で待っておられた。

さて、開演したらあっという間に私の番が来て、頭の中が真っ白な状態で弾き始めた。

ガチガチ骸骨。震えている。

と、何か会場から音がした。ゲームの途中か終了のような何か変な音で、結構大きい。二度三度どころではない、合間合間に何度も聞こえる。

えーい、誰だと腹が立った。まだ本当に小さな子がいたけど、ゲームは持っていなかった。自分の音に集中しようと思っても、妙に響いて聞こえてくる。

でも、演奏こそ途中で止まってしまったが、泥舟に乗っかるように何とか終えて席にもどった。後ろのほうで座っていた夫も胸をなで下ろしている。毎回、来てくれてご苦労様である。
小休憩に入ったとき、その夫が携帯で写真を撮ると大きな音がする、と言い出した。

え?

「いやあ、びっくりしたよ。弾いているとき、ちょっと音がしていたでしょう」

さっきの変な音はうちの夫だったらしい。
誰かがゲームをしているのかと思ったと私は憤慨した。

「いやあ、ごめんごめん、
間違えたのは僕のせいにしていいから」

そういう人だよねえ。

そこへ先生が横を通りかかり、「ご主人、面白い音を出していましたね、それがすごい可笑しくって」と笑われた。
演奏のほうは、何も仰らなかったので、イマイチだったようだ。

曲については、うまく弾けなかった悔しさも、何とかやり遂げた喜びもなく、自分の中に何も無いのが不思議だったが、無事に終わったのは嬉しかった。
それにしても、わたしもそうだが、夫の携帯って、ひょっとしなくても浦島太郎かも。


話は変わって、今シーズン、3回目の粒あん。
もう少し、甘くてもよかったかな。前回のは絶品だった。自画自賛。人生自作自演。







また、アイスクリームを買って、
撮り直してみたいです。






2012年12月9日日曜日

発表会が終わって、ほっ。


白い雪が舞った日、発表会だった。

今年は、受験などの理由で参加した生徒さんは少なかったが、やっぱり緊張した。
ガチガチで弾いていたら、途中で落っこちて弾き直しをしてしまったが、何とか無事に弾き終えた。

うれしい。
生徒さんたち、ご家族の皆さま、そして先生、どうもありがとうございました。



先生から、参加賞でポインセチアをいただきました。






2012年11月25日日曜日

自分で自分の首をしめない、その2

前回の続きで、ピアノのお稽古に関連することを書こうと思ったけれど、書きたかったことの大半は忘れてしまった。
要するに、弾き始めはテンポと曲想を思い浮かべ、自分の弾ける速さで弾き始めないといけない。なのに、弾けるところの速さで弾き始めるから、難しいところになるとテンポが落ちてしまうか、急いで弾いてミスをしてしまい、それは自分で自分の首を絞めているようなものだ。

ということを何十回も先生から注意されている。
最初、ほんの何秒か時間を取るだけでいいのに。それを惜しんで急ぐからいけないらしい。

私は、体や指が覚えているかと思って弾き始めるのだが、何でも準備無しでいきなりは無理だもんね。

ところで、この間のお稽古ではなかなか腑に落ちることが多く、おまけに休日で雨だからと迎えに来てくれた家人(夫と書くと嫌がる)との帰り道での会話も、有意義だった。
昼前だったのでお昼ご飯の話になっていたのだが、家人は、おネギの切り方や盛り方の話を始めた。女性(私)は「投げるように盛りつける」が、男性(料理家や家人)は「そっと置く」というのである。
女性は手際ばかりを重視して、手間を抜きがちで、ささっとやってしまう。
反対に男性は盛り付けに十分に時間を取るという。大きなものを扱うときは大胆に。細かく切るときは繊細に。
「繊細なときほど、ゆっくりとした動作でやるんだよ」と家人が力説する。

ふんふんと聞きながら、レッスンで先生から注意いただいたことを思い出す。

8分音符や16分音符が出てきても、急がない。速く弾いて誤魔化さない。十分に時間を取ってもいいくらい。とにかく、あわてない。

反対に4分音符ははしょりすぎで、音価が短くなりがち。
特に私は音が前に行かないで真下に落ちていく弾き方になっていて、実際の長さが足りないのに一休み入った感じになっていて、次の音につながらず、
「いつまで指を置いておくの、伸ばしているの、次は何なの?、と聞こえます」と先生がよく仰る。

と、おネギの切り方を音楽に転換して話を聞いていたが、家人が「送迎付きで優雅なお稽古だね」という。
うーん、何とも地味な古い車に乗り降りするオバQです。お稽古も不況で回数を減らしています。

そうだそうだ、自分で自分の首を絞めることもできるけれど、自分で自分を解放することもできるのだった、そういう話なのだがまた今度。





今日のもらいもの


たまにはこちらにも。




*ステンレス皿は、香川のSteal Factoryさんです。






2012年11月20日火曜日

自分で自分の首を絞めない、その1

春は春で大騒ぎしたが、秋は晩秋の小春日和の日、スカートを買った。

もう幸せです。ありがとう。

私は、小さい頃から紺しか似合わないと言われ、経済的な事情もあって母からあてがわれたものしか着たことがなかった。成人して洋服代にお金が割けたのも一時で、子どもが生まれてお母さんの格好をしだしてからは、そのままである。
いや、ちょっと普通のお母さんとは違っていたかもしれない。というのは、他の人と違う方向を向きがちだったからだと思う。明後日ってではなく、一昨日くらいの方向。
でも、人は皆、好き勝手な方向を向いていると思う。

話を戻すと、と、いろいろ書いたけれど略して、

この春から、服の経年劣化や自分自身の加齢ということもあって手持ちの洋服を見直し、無理してでも必要なものは新調してきた。

今回の買い物は、ニットが一番の目的で、パンツの色違いを来年に備えて見るだけ見ておくつもりだった。
お目当ての店に寄るとスカートが掛かっていた。
洋服のお店なのでそりゃそうなのだが、それを手にとって、世の中の女性が普通にスカートを買うように、私も買うことができた。これが春以上に嬉しい。
自分がスカートを履くということが単純に嬉しい。
いやあ、性別が分からなくなった人がこれです!と開放されたみたいだけれど、本当にそれくらい嬉しい。

自分で自分の首を絞めていたんだと思う。パンツのほうが便利だとか、節約しなきゃとか、スカートなんて着る機会がないだろうとか諦めていた。老後を諦めるほうが簡単だった。



スカートはこれです。

膝丈よりほんのちょっと上です。
何かと合わせたのはまた今度切りかぶに。



ごく普通のスカートかな。


友人が旅行先のイギリスから
送ってきてくれたポストカード




これは、男性がスカートを履いているのじゃないかと思うのだが、家人は女性だと言う。こんな顔をした女性がイギリスには多いのではないかと。そう?
WOMENSってあるけれど。
私がスカートを履くとこんな感じになるのではないかと、家人は恐れていたのかもしれない。

ところで、自分で自分の首を絞めないというのは、よくピアノのお稽古で先生から注意される。でも、長くなったので、また今度。



*ああ、アマゾン。C先生のところで紹介されていた。
我が家もアマゾンで購入が多いけれど、赤字で売れというのはどうだろう。
安く安くで結局、コスト削減、リストラで買い物できる消費者がいなくなる。

C先生のブログタイトルは、ちょっと恥ずかしくて書きにくいです。私も女性だからということにしておこう。





2012年10月27日土曜日

レーガーのクリスマス曲

初めて自転車に乗った日を思い出す。お使いはしなかったけれど。


自転車に乗るお使い二足歩行ロボット


カラパイアさん(2012.10.25)




さて、今年も準備が遅くて、リストの「クリスマスツリー」12曲*のうち、弾いてみたいと思っていた曲を練習できていない。

昨年は昨年で、12月も迫ってきた11月の終わり、リストは間に合わないから、レーガーのクリスマス曲はいかがでしょう、と先生にうかがったところ、また今度にしましょう、と言われた。
私はスローペースなので、年を越すと思われたようだ。実際、前にリストの2曲を練習したとき、二つともクリスマスを過ぎてしまった。松の内くらいまでツリーは飾るそうだから、いいかもしれないと密かに思ったのだが。お正月は苦手だし。

家で先によく練習をしてから、見ていただくようにしなくては。
先生にも、ときどき、
「今日の出し物はこれで終わりですか」
と冗談交じりに聞かれる。
私がいつもどこでも手持ち無沙汰なのは、手に何か持とうとしないからなのかも。

話が逸れたが、レーガーの曲は、みんな知っている「きよしこの夜」をアレンジした曲で、連弾もあると知って無料楽譜を探したが、
編曲がBenderという方だそうで、残念ながらなかった。

Regerはヘビーな人らしく*、それも私には好ましい感じがするが、この曲は普通に清らかで愛らしい。



 Max Reger 
Weihnachtstraum
演奏はIzumi Watanabeさん










リストのWeihnachstsbaum(クリスマスツリー)s186(当ブログ2011.12.18)
*Reger  「木曾の音楽小屋さん」(top)
 最初にご紹介くださっているのは、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(2007.11.7)

私は、このレーガーをまだ載せていないはずなのだが、肖像写真を見ると馴染み深い気がする。


2012年10月16日火曜日

夜のこおろぎ2、レスピーギの連弾曲

今は秋といえども、いつのまにかシーズンオフになっていた虫の音について書いていて、思い出した。

夜も深夜近く、11時半から12時、あるいはそれも過ぎて歌声が外の歩道から響いてくることがあった。自転車で通る人の歌声なのだが、女性でソプラノ、何かクラシックの歌曲を歌っている。あまり若くはなさそうだが、分からない。
街のほうでのサークルや個人のヴォイストレーニングの帰りか、それにしては遅い。
こんな夜中に帰っていて、危ないじゃないのと心配をしてしまう。歌では防犯にはならないだろう。

それが、週に一度ならず二度三度頻繁に聞こえる。夜でもうるさい車の音に負けず朗々と響き始めると、ほらやって来たと思うのだが、秋冬は聞こえても春夏は聞こえない。こういうのが2シーズン続いたのだが、ある年、いきなり若い男性の声に変わった。同じ時間帯で同じ道を同じ方向で走っていく。
歌はクラシックではなくて、今時の日本の歌のようなのだが、全然聞いたことがないから分からない。いつもノリにノって声を張り上げている。今年は、この若い男性に変わって3シーズン目かもしれない。

私にはこのチェンジが理解できなかった。あの女性はどうしているのだろう。

ところで、夜のこおろぎ(10/11)では、イタリアのニーノ・ロータの曲をアップしたが、同じくイタリアはレスピーギに連弾曲集がある。「SEI PICCOLI PEZZI」*。

私はレスピーギは好きだが、この連弾曲集は全体的に好きな曲調の曲はあまりない。
ところが、2曲目の「シチリアの狩人の歌」、これがもう一度聞いたら、ミッキーマウス・マーチのように耳から離れない。前回記事の連弾曲Gavrilinの「タランテラ」*が思い出せないほどだ。

4曲目の「楽しいクリスマス」、これは本当に鐘の音も楽しげに響く曲。プリモは簡単といえば簡単なのだけれど、二人で合わせるとなったら難しそうだ。
私は、正確にリズムが刻めず好き勝手し、音符が少なく暇になるとすぐ休んでぼうっとしてしまうので、連弾はとてもいい練習になる。



RESPIGHI

Sei Piccoli  Pezzi
6つの小品



素敵な演奏。
アップしてくださってありがとう。

2曲目は1:46あたりから
4曲目は5:05あたりから

                             レスピーギの作品 この曲集については、こちらで知りました。


*前回のGavrilin連弾記事にアニュータさん追記 といってもたいした話ではありません。


別の動画が見つかりました。
絵がとても素敵、今から聞いてみます。
この連弾曲集はあまり好きじゃない、
としつこく書いてしまいますが、クリスマスに向けて一曲練習中。





2012年10月11日木曜日

夜のこおろぎ

ついこの間まで、夜になると虫の音が聞こえていたような気がするのだが。
今年は10月になってもまだ聞こえると思っていた。でも、毎年どうだったか、よく覚えていない。

映画音楽で有名なニーノ・ロータの「子どものための7つの小品 SETTE PEZZI PER BAMBINI」という作品集がある*。その中に「夜のこおろぎ」という曲があって、1ページの大変短い曲。さすがにこれは動画に上がっていないようだ。

でも、私が練習した曲があった。2ページの短い曲で、練習していたときは音源が無くて、こんな感じかなと弾いて、先生に見ていただいた。




CANTILENA
子守歌




この曲は、4拍子で始まって3拍子に変わるところがある。
ここで一旦終わって、息を吸い、次の曲想と3拍子を感じて弾き始めなければいけない。でも、聞いている人にはそれを分からせてはいけない。と先生が仰った。

映画のシーンがさっと次の場面で変わるように。

ええええ、そんなこと言われても。
楽譜にはメモが残っている。
「音の長さ フレーズの長さ 空気感 間を取る 余韻を味わう」
いつものことながら、私は適当に弾いていたようだ。

この作品集は、全部目を通したわけではないが、どれを聞いてもニーノ・ロータを感じさせると思う。全部目を通していないけど。
ニーノ・ロータも、映画音楽でというよりも、ロータへのトリビュートアルバム「アマルコルド」*とか、カエターノ・ヴェローゾのアルバム「O Maggio a Federico E Giulietta フェデリコ・フェリーニ監督とジュリエッタ・マッシーナへのオマージュ」くらいでしか耳に馴染んでいないのだが。
映画自体も、ヨーロッパよりアメリカンが気楽で好き。
 


PUCCETTINO NELLA GIUNGLA
ジャングルのブッチェッティーノ

 
この曲もピアニストが弾くと、いいなあ。
私はこんなふうに弾けません。



*NINO ROTA 「ニーノ・ロータ 子どものための7つの小品 関孝弘 校訂・解説」 全音楽譜出版
関先生の解説によると、ニーノ・ロータの本質は純クラシックだったそうで、動画にもロータのクラシック音楽がたくさんアップされていた。

*アマルコルド  1981年のハル・ウィルナー(wiki.jp)がプロデュース。
         後で追記予定。
         




2012年9月10日月曜日

「ナンシイのピアノ」が聞けるようになっていた

ピアノの練習をまたサボり勝ちになっている。
それで、どうしてもピアノ関係のことには、足を向けて寝てしまっているというか、敷居が高くなってしまっている。このブログでも、ピアノ関係のことは、それっきりの記事が多い。

本当は、この夏はフランスの作曲家シャミナードについて書こうと思っていた。夏にピアノを練習するというと、ナンシイのことを思い出して、同時にシャミナードの名前も浮かんでくるからだ。
ナンシイというのは、アーサー・ランサムの『スカラブ号の夏休み』に出てくるアマゾン海賊で、妹はペギイ。

小学5年生の夏休み、私は学校の図書室から『スカラブ号の夏休み』を借りて、夢中になって読んだ。これは『ツバメ号とアマゾン号』シリーズとして知られる12巻のうち、最後から2番目の本である。
この本から読み始めたのは一番面白そうだったのと、最初の数冊は、図書室で誰かが積み上げて一生懸命読んでいたからだった。

最初のページを開いた途端、ナンシイとペギイの海賊姉妹の虜になってしまった。長い夏休みでもシリーズ12冊は読み切れず、『スカラブ号の夏休み』はまさしく夏の思い出となりかけながら、少しずつ借り出しては読み進めた。
いつかお小遣いで12冊全部買おうと思いながら、結局は一冊も買えず、大人になってから『スカラブ号の夏休み』だけ買った。あとはそのうち、と言っているうちに買う気がなくなってしまった。
実はもう、登場する他のたくさんの子どもたちやヨットの漕法などの細々としたことに、頭がついていけなくなっていたのかもしれない。近所の図書館で借りてみたこともあったが、私はナンシイとペギイ以外あまり興味が持てないのだった。

『スカラブ号の夏休み』の記憶は既に薄れている。もちろん本はあるのだが置き場所が悪くて虫が出そうで怖い。紙魚みたいな虫ではなくて、何か変な虫。
でも、ずっと忘れなかったことがある。それが、ナンシイが大おばさんの前でピアノの練習をしなくてはいけない、ということで練習していたのがシャミナードだったということ。この聞いたこともない作曲家の名前と、ナンシイの練習曲がどんな曲だったのか興味津々だった。
あとは、芝刈りのこととか、インテリのドロシアとディック姉弟が半熟玉子を作るのに、3分きっちりで茹でていることかな。

さて、時折思い出してはシャミナードの曲をネットで検索していたが、最初の頃はほとんどヒットしなかった。特に音源を探しても、midiの時代でまったくといっていいほど無かった。

ともあれ、次第に検索すればシャミナードについて名前が上がるようになり、いつのまにかYouTubeにもアップされるようになっていて、数も増えている。
まず聞いて驚いたのは、結構大人っぽい流麗な曲なのね、ということだった。どんな曲なのかは全然分からないにしても、海賊ナンシイが日頃は丸っきり練習していないようなので、もっと子ども向けの曲なのかと思っていた。私は少しショックだった。私はいつまでたっても上達しないのに、ナンシイは弾けるのねってと大人げなく僻んでしまった。
一時は無料楽譜でシャミナードをプリントアウトしてみようと思ったくらいだったが、私にはあまり合わないどころか、練習を積まないと弾けそうにない。

そうそう、シャミナードを思い出したのは、「気ままな生活」さん(top)がスティーヴン・ハフの新譜『French Album』をご紹介されていて(2012.9.6)、その中にシャミナードの名前があったので。
さらに、「気ままな生活」さんの直近記事では「作曲家ワイセンベルクとジャズ(2012.9.4)」という珍しい話題を取り上げられていて、大変面白く読ませていただいた。私は、ワイセンベルク様が好きなのに、スカルラッティとバッハをちょろりと聴くくらいで、何も知らない。「気ままな生活」さんの素敵な選曲と文章を拝見していると、空っぽの自分に中身が付いていくようでとても有り難い。

最後に「ナンシイのピアノ」は聞けるようになっていただけではない。検索すると、
ドンキイ探検隊調査報告書さんHP(home)
「ナンシイのピアノ」が取り上げられていた。ヤホイ(という年でもないが)!
練習風景を読むと、まあ、ナンシイはまるで私そのものではないか。大おばさんの前でナンシイ(ペギイか)は”何とか音楽に聞こえるまで上達している”ので、私もがんばろうと思う。

ドンキイさんのHPを拝見していると、また読みたくなってくる。まずは、我が家の『スカラブ号の夏休み』に虫が付いていないか、見てみよう。
そうそう、私の友人もアーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』シリーズの大ファンだ。でも、一度も友人とは、ランサムの話をしたことがないのが不思議。


2012年8月11日土曜日

詰まったり、詰まらなかったり

昨日は、ピアノのお稽古だった。例によって例の曲を弾く。
今まで、生徒(小さい子をのぞく)を滅多なことでは褒めない先生が、「うまくなったじゃない」と仰ってくださった。
でも、うっかり「うっ、まく」と言いかけてしまったので、仕方なく最後まで言い切ってしまわれたようだった。
さらに、「やれば、普通に出来るじゃない」。それこそ行きがけの駄賃(7/6)で言っていただいた。この先生は、前記事のA先生ではない。うさぎブログのU先生とお呼びしよう。
ともあれ、最初が悪すぎたので、ようやく何とか詰まらずに弾けるようになっただけのこと。スラダンでいうと、花道がジャンプシュート決めて、花道を知る他校のチームがびっくりしている感じ。


私が長い間習っている割に、余りに進歩がないし練習もしないので、いつだったか、
「練習するのが好きじゃないのだったら、他にしたいことがあるんじゃないですか。ピアノでなくても、趣味はいろいろありますよね」
と、先日引用させてもらった斎藤雅広さん(8/2記)ではないが、先生にも私は言われたことがある。大変、ショックだった。私は、U先生に教えていただいていることが、大いなる喜びで自慢だった。U先生は、教師でもあるが、素晴らしいピアニストで、これ以上の先生はいらっしゃらないと思う。
うーん、破門?

そういえば、斎藤さんが、よもや私のブログに目を通されることはないと思うが、私に都合の良い抜き書きをしてしまったので、
あれでは読む人に誤解を生じていることだろう。もう少し丁寧にフェアな書き方をすればよかった。斎藤さんも、U先生も、いきなり学習者を門前払いをするとか、別の道を行けと言われているわけではなかった。
現に斎藤さんが、NHKの「趣味悠々」で教えていらっしゃるのを一度だけ見たことがあるが、初心者のために曲をアレンジして、音楽的に、弾く人も聞く人も満足できて共に喜べるように工夫をしていたし、とても丁寧に指導していたのが印象に残っている。
生徒を選び、ハードルを上げて、これを飛べない人は駄目よではなく、レッスンの場に利権も特権もそこには設けていなかった。

私が保存しておいた、その斎藤さんの「Q&A」は、プロを目指す人たちに向けての、覚悟を求める叱咤激励だったと思う。周囲から変人と言われてもやりたいのならやりとおせ、のたれ死にしたら親は骨を拾ってやれ、とまで書かれていた。プロになるなら、音楽でもスポーツでも、お金が掛かるというのも真実だろう。過激に見える部分以外をきちんと書いておくべきだったと反省している。まあ、大部分が意図的に過激だったが。

ところで、私の場合、私自身が進歩がなくて辛い以上に、U先生も苦しかった、つまらなかったのではないかと思う。いくら辛抱強く、練習の仕方まで細かく教えても、やってこない生徒には、時間もお金も無駄だと思われるのは無理がない。私も、友達が何かで行き詰まっているのを聞くと、気分転換や別のことをやればと勧めるもの。

要は、今回たまたま引用させてもらった教師としての斎藤さんもU先生も、生徒のやる気を問うていて、真剣な質問なら内容が稚拙に見えたとしても答えてくれただろうし、斎藤さんは生真面目にQ&Aで回答していた。斎藤さんに限らず、先生というものは、必ず何とか応えてくれる有り難いものだと思う。

ということで、私も生徒として、初心忘るべからずと姿勢を正すことにした。楽しみでやっているので、音楽を聞きかじるだけでも上澄みだけでも充分と思うけれど、レッスンでは、近頃なあなあで適当にやっているという感じで、先生には申し訳なかったと反省している。


さて、昨日は先生に持ち上げていただいたが、いつも通り、すぐ「口を開けたまま、しゃべるような弾き方をしない」、「リズムはウッ、ダダ、ウッダダではなく、ウタタウタタ」など変なところをいっぱい訂正していただいた。
どういう弾き方がいいか、自分でも試すように言われた。もちろん、前々からそうするようにご指導はあったが。その試行錯誤もあまり無駄なことはしないように、教えてくださっている。ただ、先生のお宅を一歩出ると、すっかり忘れてしまう。

気分が乗っている間に練習をしよう。私はいろいろとすぐ落ち込む質だ。人生球拾いのつもりで、気分を上げよう(この間、久しぶりに野球をちらっと見たからね)。

最後に、全然関係のない話。お金持ちのご一家がご近所にいらっしゃるのだが、とてもダンディなご主人に「こんにちは」とご挨拶をすると、「はいはいはい」と返事をしてもらったことがある。私のような貧乏人は、子どものようにしか見えないのかもと思った。


いやあ、お金持ちは、何事も煮詰まったりしないのだろうなあ。
「はいはいはい」。この調子で、しばらくやってみようかなあ。


2012年8月7日火曜日

音が分からないので「木」で選んだピアノ

我が家のピアノ購入記。

電子ピアノからアコースティックピアノへの買い替えだったが、「耳と手」で選ばなかった。全体の「木の感じがいい」という「見た目」で選んだ。かれこれ12,3くらい前の話になるだろうか。
最初、ピアノを選ぶのは簡単だと思っていた。希望のメーカーブランドがあったし、自分の運をあてにしていたので、お店に行けばすぐ決まると思っていた。
また、出来れば、黒い塗装のピアノではなく、最近の言葉で言うと「木目調」のピアノが欲しかった。我が家は借家で狭くて暗いので、アメリカのホームドラマで見るような、背が低くて圧迫感のない、インテリアに溶け込む茶系のアップライトピアノがいいなと思っていた。

そんな可愛い木目のピアノを、いつも店先に置いているのが見えるピアノ専門店、浜松ピアノさん(*後注)へ、まず下見に行った。憧れのお店である。そのお店は、ピアノの先生がピアノを買われたお店なので、なおさら他のお店で買うことは考えられなかった。弟子が先生に相談せず、勝手に買うわけにはいかない。
実は、先生というのは、今教わっている先生ではなく、当時同じマンションに住んでいらっしゃった方だ。国産の珍しいApollo(東洋ピアノ)ブランドのグランドピアノをお持ちだったので、ここではA先生とお呼びしたい。
A先生は我が家とは家族ぐるみでおつきあいくださり、先生には、細かなことでもよく気に掛けていただいた。楽譜どころか椅子まで要らないのを頂戴したこともある。その上、何度も、ピアノをそのうち譲ってあげるからお待ちなさいと言ってくださった。先生も人生の節目にいらっしゃって、老後のご予定を考えておられたからだった

先生のApolloはApolloでも、いわくつきのグランドピアノだそうで、ひょんな事情でA先生の元へやってきたらしい。どのピアノにも素敵な物語は付きもので、由来を聞けば、益々譲っていただくのを楽しみにしていたのだが、事情というのは変わるものである。これは無理だとそのピアノは諦めたが、初めてのレッスンで椅子に座ったときから魅せられて虜になっていた私は、買うならApolloだと決めていた。
こうして、意気揚々と出かけたのに、何とお店では取り扱っていなかった。私が不確かなことを書いて誤解が生じていけないのだが、先生のApolloピアノは、たまたま、お店の中古ルートでお嫁に来たようである。当時は、自社のまともなHPを持っている会社なんて大企業でも少なくて、電話帳の広告を見るほうが早かったくらいで、事前に取扱いメーカーなどを調べられなかった。そんな時代だったというのが、今からすれば不思議。

お店でApolloがないと分かると、後はもう狼狽えるのみ。
一気に緊張して早く出直したいと思った。若社長さんに弾いてもらったが、音の違いが分かるわけがない。初めから自分の耳は当てにしていなかった。期待していたのは、直感とか、天からの声だったのに、一向に啓示は降りてこない。よっぽど耳が悪いのだろうか。
と言いつつも、今、思い出したが、私は普段、Apolloを弾かせてもらい、若々しさはないけれど、低音が豊かで深みのある音に接しているので、ピアノに関しては「何か分かる」と思っていたのだった。でも、実際は全く分からなかったし、Apolloと比べてどのピアノもタッチが軽いのにも驚いた。

ようやく、見た目重視で選ぶつもりだったことも思い出したが、お店は輸入ピアノが中心でどれも素敵でこれも分からない。焦るばかりだったが、アップライトが群立しているような中に、木の感じが非常に好ましいピアノがあった。店先のお洒落なピアノやスタインウェイなどの超高級ピアノと比べると、かなり地味である。そのピアノを一回りすると何となく好ましい。その好ましさが何であるか分からない。地味なくせして予算を上回っていたが、カタログをもらって帰った。

カタログを見ると、実物よりも綺麗に撮っているせいか、木目が感じ良くて、気持ちがどんどん傾いてくる。カタログの効果は大きいと思う。見ていたら、本当に欲しくなってくるもの。

だけどこれを、天の声、直感というには、あまりにも心許いだろう。いい音で、一生大事にしたい、これよこれ、という出会いでピアノが欲しかった。何かどんでん返しはないだろうか。
とりあえずピアノの先生にご相談をして、一緒に付いて来ていただくこととなった。
お店でA先生はぱらぱらっと弾いては、どのピアノも、うーんいい音ね、迷うわねと仰った。ピアノの選択は、先生に委ねていた部分もあったので、ちょっと困ってしまった。先生にしてみたら、ピアノは高価な買い物なので、アドバイスはできても、これにしなさいとは言えない立場だろう。

子どもも連れて行ったが、ほとんど興味を示さない。これにはがっくりした。指差して欲しかったが、我が子にも天の啓示はなかったようだ。

それでも、候補が二つに絞られた。最初から気になった「木の感じがよい」ピアノ。もう一つは、そのクラスでは、コストパフォーマンスが最もよいとお店が一押しのお勧めピアノで、先生も音はとてもいいと仰った。夫は、その紫がかった色調の艶出し塗装のピアノを気に入っていた。夫は視力が2.0で間違いがないかもしれない。
でも、私は、その艶出しが、べたっとして見えてきた。確かに綺麗かもしれないが、私の好みからしたら、甘めに感じる。
それで、最初のピアノに決めた。堅牢で押しつけがましさが無く、控えめできれいだ。

結局、最初の直感じゃないの、と言われそうだし、よく思い出せば、カタログをもらった段階で気持ちがのめり込んでいたようだが、それはピアノを購入するという興奮であって、何だか違う気がする。「きれいな木目」というのもカタログからの後付け情報のような感じもする。「木の温もり」というのは大概のピアノにあるものだ。
なので、何となく佇まいが好ましかった、全体としての「木の感じ」がよかったと繰り返し言うしかない。
そして、こうして木で選べたのは、目の保養のため家具屋さんによく出かけていたせいかもねと、家族には何百回と話している。その割に、木材の知識はなく、この家具(ピアノ)は何の木から出来ているのかと尋ねられても、まったく分からない。黒い塗装だったら、本当に迷ったことだろう。音には違いがないそうである*。

後日、納品されて、我が家にぴったりと収まった。最小サイズなのに、よく鳴り響く。音も澄んでいて明るく、ギターのような音色がする。これをいいと言う人もいれば、単調で好きじゃないという人もいるようで、様々だ。楽器の個性なので仕方がない。
でも、私は、音もタッチも分からず、よく無事に「自分のピアノ」を選択できたものだと、しみじみ思う。私には申し分のない、いいピアノである。もし、最初の下見に行った日に戻ったとしたら、同じ物を選べるかどうか、それは分からないけれども。
そんな「偶然の必然」で、運良く出会って手に入れられたと思うと本当に感慨深いが、これがこのピアノの唯一の物語かもしれない。このピアノの記事を書くのに、やたら時間が掛かった。それだけ控えめで忠実なピアノとも思える。この購入記もApolloの話が半分ではないだろうか。

あのピアノを巡る話のほうがずっと面白くて、あっという間に書ける気がする。ピアノだけではなく、私は一時期、自分の人生の半分はA先生で出来ているのではないかと疑っていたこともある。その先生も、引っ越されてしまった。A先生もApolloピアノも遠くなりにけり、である。


浜松ピアノ社(広島)  とても綺麗な楽器屋さん。家具屋さんと通じるものを感じます。

*ピアノの塗装については、当然楽器店や調律師さんたちのHPが詳しいですが、廉価版の木目よりは、黒い塗装ピアノが丈夫と書かれていたものがありました。要は手入れ次第ですね。




2012年8月6日月曜日

埃を払ってやりました

前記事で、ピアノの購入やメンテナンスについて、うろ覚えのいい加減なことを書いてしまったと気になって、ピアノ販売店や調律師さんのHPを幾つか見てみた。

ピアノの購入に当たっては、国産であろうと輸入であろうと、新品でも中古でも、品質が確かで気に入ったのを買い、とにかく大事にしてあげる。というのは、ピアノには寿命がある。外側が木材で出来ているので家具と同じように思いやすいが、車と同じで一種の精密機械を内包している。それらは消耗するし、木材も経年劣化する。日頃のお手入れが大切。古いピアノが蘇るのは、元々の材がよかったのと、オーバーホールや調律などのメンテナンスによるもので、相応の出費が必要となる。


と、大雑把にまとめてみたが、調律師さん達のHPをあちこち拝見するうちに、私は、お稽古の心構えと同様に、ここでも初心を忘れているのに気がついた。我が家のピアノをもっと大事にしなくては、と慌てて乾いた布で埃を払ってやった





Jaccha Heifetz
 Fallaの
「 Spanish Dance」




Balkan Dances(7/12)の関連動画で見かけたと思うのですが、
Fallaの「スペイン舞曲」が気に入って聞いています。


ハイフェッツをもう一曲。

Mendelssohn
Violin Concerto
Heifetz
Cantelli指揮



こちらは、ピアニスト斎藤雅広さんのマサヒロ瓦版
ー ハイフェッツのメンデルスゾーン
旋律はちゃんと歌い抜かれているからさすがだ。
甘美な曲を甘美に弾かない(笑)ー
惹かれて聞いてみました。






2012年8月2日木曜日

調律前に思い出したこと、選り好みの権利はない

梅雨で湿気たピアノの調律をお願いしないといけない、と思いながら日が過ぎている。


ピアノの部屋には除湿器は置いてあるが、かなり熱が出て、狭い部屋なのでその場にいられないほど暑くなる。エアコンで、24時間一定の温湿度に保つのが理想的である。だけど、そんな余裕はない。


ちょろちょろと弾く程度だから、まあ年に一回調律すればいいでしょう、と思っているが、「楽器のメンテナンスにお金を掛けられないような貧乏人は、音楽をするな」という言葉が浮かんでくる。


そうそう、ずばっと、


ピアノなんて、ばんばん買い替えなさい、輸入ピアノなんてなおさらよ、外車と同じでメンテばっかり必要。その点、国産ピアノ、ヤマハはいいよ。
ピアノに時間もお金も掛けられないのなら、やらなくていいよ、他にやることあるでしょう。


となかなか大胆なことを仰っていた方がいた。ピアニストの斎藤雅広さんだ。斎藤さんはヤマハで講師だけではなく、アドバイザーみたいなことをなさっているためか、それを割り引いても、ピアノ購入の選択肢については他に聞いたことがないご意見でなるほどと思ったものだった。

これは以前、斎藤さんのブログで拝見した記事だったが、そのブログには「ピアノQ&A」のページというものがあり、読者からの質問に答えられているのが、特に面白かった。
参考になることばかりだったので、一部保存しておいた。読み返すと一層面白い。今、斎藤さんのHPには、そのページが見あたらず、NHKの「趣味悠々」講座をされていたときのQ&Aとも違うようである。後でゆっくり検索して見てみたい。


さて、その「ピアノQ&A」は、斎藤さん自ら文中で「別名お仕置き部屋」と言われていた。プロのピアニストを目指したい、あるいは子どもを音楽家への道に進ませたいという読者の悪意も他意もない投稿に斎藤さんが容赦なく真摯に返答され、質問者の脳天気さが浮き彫りになってしまうのだが、私も一緒にお叱りを受けている気分になってくる。私はただの趣味でプロを目指すとかは関係ないが、投稿された方々の無邪気さはそのまま通じる。よくぞ投稿してくださったと思う。


斎藤先生のお言葉

「あなたは何でもご自分で試そうとはせず、略〜、『人がこう評価したから』で判断して、なるべく無駄をしないでお金もかけず楽して、世を渡ろうとしているとしか思えません」
  ー これは別の回答で「器用に立ち回るな」と仰っていたのと通じると思う。

「文化というのは、そもそも時間とお金と労力を費やすもので、


人にものを聞けばすぐ答えを得られる等と考えているのなら、改めるべきだし失礼です。私は『お答えロボット』ではありませんし、


時間とお金を使ってCDやコンサートで何十人もの演奏を聴き、楽譜も何種類もの権威ある楽譜を買い揃えて勉強し、略〜、先生方のレッスンも受けられ、様式を把握してからここにいらっしゃい。
人に質問し答えてもらえるためには資格がいる、無勉強・無教養であってはならない」


他にも、伝統を継承する正しい読譜力をつけていく、練習は緻密に、地道なことができないような子どもならやめたほうがいい、と厳しいようで親身な細かいアドバイスが綴られている。
私も、ピアノの先生によく言われるが、練習は「急がば回れ」だなあと思う。


斎藤先生のお言葉で今日は締めくくろう。
「どんな課題曲であっても、あなたに才能があればよい曲に聴こえますし、やる気があれば努力したことはすべて実になるものです。勉強する身で選り好みする権利などないと知るべきです」


はい、その通りです。
いくら趣味で弾いているとはいえ、この曲は嫌だ、と選り好みする権利はないのかもとちょっと謙虚な気持ちになった。それよりも、近頃レッスンでは、大人の趣味だから、好き勝手させてください、いいでしょ、という態度になっていたのではないだろうか。
と深く反省した。


一曲の代わりに


お豆腐の上の大葉は
私が切りました。
なんと不細工なのでしょう。
いつも手を抜かず綺麗に切る夫とは違います。
とうもろこしも適当です。


私の弾き方と同じです。



2012年7月28日土曜日

森を見て木を見ず スタッカートに気がつく

執拗に書いてしまう練習記録。認めたくはないのだが、苦手なものに向き合えるようになったほうが、得られるものは大きいようだ。まだまだ少しずつかじっている段階。


苦手というのは、易しい曲だからつまらないのではなくて、優しい曲で自分には合わないから。普通の人なら、3,4日あればミス無く弾けて、半月かひと月で仕上がる曲を、私は半年掛けて練習している。
前回、ようやく、先生に見ていただけるようになった。これまでは、間違った音を出していないか、リズムが変だとか、楽譜から逸脱していないかのチェックであったが、打鍵の仕方や表情のつけかたを、細かくご指導くださる。久しぶりのような気がする。
先生も私への指導にはお疲れのようだけれど、曲に飽きることは決してない方で、いつも真摯に楽譜と音楽に向き合っていらっしゃる。そうえいば、先生というものは、同じことを何度も生徒に教えないといけない職業だなあ。


さて、「木を見て森を見ず」という格言があるが、私が練習している状況は、その反対で「森を見て木を見ず」、一見面白くないけれど、中に入ってみたら結構よかったということかもしれない。
遊園地に入ってみたら、アトラクションが面白くて楽しめたみたいなことだろうか。曲の中からワンフレーズ取り出して練習して、細かなことに気がつけば気がつくほど楽しい。

この間は、スタッカートがたくさんあることに気がついた(一応知ってはいたが意識して弾いていなかった)。初めから先生は、「このスタッカートは軽く切って、次のフレーズへどん」とか、あちこち丁寧に教えてくださっていたのだが、先生がアドバイスしてくださったところ以外に、至る所についている。それがまあ、古典期の曲なので、若い美人が男性をからかって可愛い足を出したり引っ込めたり、爪で引っ掻いたりしている感じがする。長い脚で蹴り上げたりしている現代的なものはない。


先生にこうしたスタッカートのことを話してみると、「違います」。
「ここはですね、男性が、思いが叶わないことに嘆いて、はぁあっ、あぁあっ、と溜息をついているのですよ」
鑑賞力ゼロの私だが、それはそれでまた、どうなんでしょう、と思う。でも、私の気持ちなんか関係なくて、とにかく曲を奏でて演じなければならない。


以後、気をつけてスタッカートを場所に応じて弾いてみると、ちゃんと楽譜に自分が同化していっているようで面白くなってきた。「わたしは嫌だ、嫌だ」の自我が消えて、よい練習になっている。本当に感謝している。
この感謝の気持ちだけでいっぱいで練習した気になっていたのか、次に先生に見ていただいたら、「全然、前と変わっていない」とがっくりされた。筋肉が覚えるまで練習するのが練習だった。

ところで、60年代イギリス4人組も、顔が生理的に好きじゃないからどうしても受け入れがたいものがあるのだが、それはものすごい損らしい。オリンピックの開会式で一緒になって歌えば、大好きになったかもしれない。ー無理はしなくていいかな。ファンからしてみれば、余計なお世話だと言われそう。ほんと、そうだ。


でも、芸能人や有名人でも、間近で見たり、握手してもらったりしたら、一生もののファンになる。たまには敬遠せず、どんどん近づくと手に入るものも増えそう。
私は近眼で、近寄りすぎて嫌がられることもあるが。何だかんだいって、考えても分析しても意味のないことだった。


最後に思ったが、森を見て木を見ずというより、ただの「食わず嫌い」に近い話になってしまったようだ。



2012年7月18日水曜日

楽譜が見えたのも束の間と、場所替えゲーム

ピアノの練習で、あまり好きなタイプの曲ではないからと、一時は身もだえするほど苦手に感じた曲と取り組んで、早、5ヶ月。さよならするどころか、まだやっている。でも、他に弾きたい曲も見つかって、モチベーションも上がってきたのが嬉しい。


さて、その苦手な曲を練習しているとき、突然、楽譜を見るってこういうことか、と体感できた日があった。もちろん、普段も楽譜を見て弾いているのだが、好きではない曲を弾くときは、実際、ろくすっぽ見ていない。
人間は、関心のないものには、ことごとく冷淡である。扱いが邪険である。


例えば今回、のどかな恋のメロディという曲想についていけず、泣く泣く練習するようになったときは、完全に関心がなくなって、どうでもいい感じだった。
もう自分がどんな音を出しているか聞いていないので、間違った音を出していても全く気がつかない。
先生が目を丸くして、
「もう長い間弾いているのに、初めて楽譜を見たみたいに弾かないでください」
「今、違う音を出したのに気がつかない?古典期の曲だから、和音が違ったらすぐ分かりますよね


私のほうこそ、びっくりである。
「え?、間違えていましたか。自分の出している音を聞いていませんでした」


「頼むよ〜」と、先生は絶句された。

「わ、それ、家でもよく言われるんです。でも、頼まないでください」


と、終いには、知っていても知らないふりをしてしまう関係になっていた。隣にいる人が明らかにボタンを掛け間違えておかしな格好をしていても、黙っているようなもので、そもそも関心が持てない。


そんなある日、どうしたことか、嫌だとか苦手だとか思わずに練習できた日があった。

そのとき、楽譜の音符というより音が見えたというか、今弾いている音の次に、これまで気がつかなかったけれど、こんなところにこんな音符があったのね、と見えたり、ある音符を弾いた後で、その出した音が聞こえるし、前の音も次の音も見えてメロディーとしてつながったりした。
リズムも感じ取れた。感じるだけで、実際には楽譜通りには弾けなかったが、とにかく、一音、一音が目に入って、音楽が流れて聞こえてきた。


こんな有り難い奇跡は一度だけで、その感動も長続きはしないが、次のレッスンでは、先生はさすがに変化を感じ取ってくださった。

ところが、人間は意識をし始めると、これまでの態度とは打って変わって、そわそわしたり、細かなことが気になってきたりするものである。
私は、弾きながら今度はぎくしゃくしだした。一節一節に注意を傾けては、自分の出すがさつな音に、ひいと後ろに退いては恥じ入った。
「何ですか、その挙動不審は」と先生があきれていらっしゃる。
我ながら、地球人のふりをしていたことがばれてしまった宇宙人のような動きだと思う。

それでも、ここまでお近づきになったのなら、何とか上手に弾けるようになってもいいのだが、結局、まあ、挨拶は交わすが、おつきあいはない隣人みたいな感じになっている。すべては記号で意味がないと思えばいいのかもしれない。


ともあれ、どんな曲でもいい、一度でいいから、楽譜通りに弾けるようにしよう。



「Men In Black」で
sugarを欲しがるEdgar





このエイリアンに体を乗っ取られた農夫役をしていた
ヴィンセント・ドノフリオが出演した映画
「13F」(SF。wiki,jp)を見ました。
バーチャル・リアリティの研究開発を巡るミステリーです。
主人公ではありません。

13F(1999年)
trailer




映画「ウエストワールド」(5/27記事)といい、
バーチャルだろうと遊園地だろうと、
前世や来世であろうと、
人間のやりたいことは変わらないと思います。


場所を変えて、違うゲームをしているだけなのかも。





2012年7月6日金曜日

七夕(星の静寂 O Silencio das estrelas LENINE) 楽譜通りに弾けますように

明日は七夕、笹もないけれど、ピアノのお稽古がよたよたとしながらも続けられていることに感謝して、また、基本を忘れないように、書き留めておこう。






楽譜通りに弾く

息をしてから弾く
(弾く前に曲想とテンポを思い浮かべる
フレーズに合った息をする)

次の音の準備をしてから弾く

止まらず休まずに終わりまで弾く

ということができますように






最近、打鍵の仕方とか脱力とか、ワンフレーズ取り上げて細かく先生から注意を頂くことが減っている。もう、私は最初の段階でつまづくのである。義務教育のおかげで楽譜は読めるのだが、楽譜通りに弾けなくて、というか楽譜を無視して弾いている。目が悪いので、かなり拡大コピーしているのだが、見えていないというより、見ていない。意識して弾いていなかったら、見ていないのと同じである。


レッスンではこんな感じ。
一通り、自分でも下手さ加減に嫌になりながら弾き終わると、先生から、指摘を受ける。
「弾く前に曲想を思い浮かべて、テンポに合った息をしましたか」
「はーい、そこ、行きがけの駄賃で弾かない」
「小石をあっちこっち落とすように音を置いていかない」
「指を鍵盤に適当に置いてみて、押さえたら合っていた、ラッキー、って感じ?(に聞こえます)」
「音を前に出しましょう、進めましょう」
「水たまりが前にあるのに、どうして入ってしまうのですか。うわ、入っちゃった、てへ、なんてやっている場合じゃないですよ」
「ピーポーピーポーって救急車みたい」
「よろめきながらも平均台を渡っていて、ああ、やっぱり落ちちゃったかでしたね」


先生のレトリックは、もっと素晴らしいのにお伝えできなくて残念だ。
先日から弾けずに困っていた曲を練習しながら気付いたこととか、いろいろ、また次回で。


箱と曲(夫のブログ)では、「Lost in the stars」から一曲、取り上げているようだが、私は、レニーニの「A Ponte」にしよう。橋、である。


と思ったら、ちょうどよいのが見つからなかったので


Lenine
「O silencio das esterlas」
星の静寂



歌詞と訳は→☆(箱と曲)より
転載しました。


Solidão, o silêncio das estrelas, a ilusão
孤独、星の静寂、幻
Eu pensei que tinha o mundo em minhas mãos
手の中に世界を持ったように思った
Como um deus e amanheço mortal
神のように、しかし夜が明ければ死すべき者
E assim, repetindo os mesmos erros, dói em mim
そして、そんなふうに同じ間違いを犯すことで辛くなる
Ver que toda essa procura não tem fim
こんな願いのすべてには終わりがないと分かっている
E o que é que eu procuro afinal?
すると、結局求めているものは何なのだろう
Um sinal, uma porta pro infinito, o irreal
合図、無限に通じるドア、現実ではないもの
O que não pode ser dito, afinal
結局何も言うことができない
Ser um homem em busca de mais, de mais...
より多くのものを求める人間なのだから
Afinal, feito estrelas que brilham em paz, em paz...
結局穏やかに穏やかに輝く星のように
Solidão, o silêncio das estrelas, a ilusão
孤独、星の静寂、イリュージョン
Eu pensei que tinha o mundo em minhas mãos
手の中に世界を持っているように思った
Como um deus e amanheço mortal
神のように、しかし夜が明ければ死すべき者
Um sinal, uma porta pro infinito, o irreal
合図、無限に通じるドア、現実ではないもの
O que não pode ser dito, afinal
結局何も言うことができない
Ser um homem em busca de mais...
より多くのものを求める人間なのだから




2012年6月27日水曜日

レッスン後日談、私次第というよりは と、Berekeke

<レッスン前日と綿菓子6月1日の記事ー
今、練習している可愛らしい曲が身もだえするほど嫌になり、とうとう全く練習をしなくなって、ピアノが弾けなくなってしまった。ところがある日、突然、何事もなく平然とその楽譜に向き合えた>の続き


さて、この話からほぼ2週間後、膨らませたガムがぺしゃっとつぶれて、唇の周りに張り付いたみたいなことになってしまった。
先生に普通に弾く心構えができたと宣言しておきながら、やっぱり駄目でしたという大変気まずい空気が漂う展開となった。先生はひと言、「最後にもう一回、弾いて終わりにしましょう」と仰ったが、破門にされなかったのが不思議なくらいである。そこは、私は大人なのだから、自分から申し上げなければいけなかったのかもしれない。


今回、この曲にこだわったのには、いろいろと理由がある。
私は大人からピアノを始めたとはいえ、既にレッスン歴は長い。だけど進歩がほとんど無い。気に入った曲や発表会では、ゆっくりとたどたどしく、何とか曲がりなりに弾いてきたが、それはあくまでも曲がりなりにであって、普通にさらさらではない。
いつまでもこれでは、面白くない。乗り越えなくてはならない壁がどこにあるかは分かっている。とっかえひっかえ練習曲を替えても、自分が変わらない限り、同じである。
先生からも「もうそろそろ次の段階へ」と言われる。
その点、今、練習している曲は、ちょうどよい教材だった。最適かもしれない。



帰宅してからも、レッスン室での後味の悪さに、あれこれ考えたりもしたが、2,3日経つと何故か不意にもう一回がんばることにした。弾いてみようと思った。


すべては気分次第だ。理由はない、と思う。


この気分が続いている間に、練習をしよう。これが「ノリ」なんだろう。気分は、「わたし」自身じゃない。好き嫌いなど関係ないところに乗っかればよいのかも。


ただ、行きつ戻りつした間にちょっと学んだというか、自分が無関心なものに対して、いかに邪険で冷淡になっていくか、その過程が練習状況に映し出されたのが可笑しかったし、いい発見もあった。このことも忘れないように、次回、書き留めておこう。


ところで、Geraldo Azevedoという人の「Berekeke」という曲が気に入っている。「Woman on Top」という映画で使われたのだが、映画も途中までしか見ていない。後で、と一旦置いておくと再開するアクションにエネルギーが要る。
その「Berekeke」をこのブログに前に載せているのかと思ったら、まだだった。
もう3日前のことは覚えていない。過去の記事は恥ずかしくてあまり目を通さないから、3回に一度はお気に入りの同じ曲を載せてみようかと思ったりしている。夏休みの日記と同じというか、毎日同じでいいのかもと。
習作として、毎回同じテーマで書き綴っていくとか、ますます面倒なブログになりそう。
よく読まれている記事などをトップに出すようにブログを変えられるが、このブログの場合、ハムや器、クラシックの曲を検索して来訪された方が、記事を見てがっくりとされている感じが自分でもよくわかる。


夏にお勧め
特に意味のない歌だそうです。
(私は今まで、あまり歌詞を気にしなかったので)

Geraldo Azevedo
「Berekeke」




同じサントラ内に
レニーニの曲「O Ultimo Por do Sol」(最後の日没)もあります。
当ブログ(2012,1.1.「一年のループ」記事内)

2012年6月1日金曜日

レッスン前日と綿菓子

私はピアノを習っているが、お正月あたりから、やる気をなくしてしまい、練習がおろそかになっている。弾きたい曲を探すのも面倒でやっていない。
それで、また一段と腕が落ちてしまった。2月くらいから、初級〜中級レベルの曲で、先生が選んでくださった曲を課題にしているが、一向に仕上がらない。


それは牧歌的な曲で、美しい娘に恋をして失恋し、ちょっとだけ嘆いているけれど、全体的に可愛らしさに満ちて、明るい光の中でそよっと物語られる感じ。
技術的にも曲想的にも、ソナチネアルバムくらいで、プロが弾けば面白いけれど、私が弾けば、全く面白くなくて退屈してしまう。平易な曲ほど弾くのは難しいのだが、単純だからというより、自分に合わない曲だから嫌なのだと思う。モチベーションが上がらない。

私は、自分自身は案山子みたいなのに、牧歌的とか風光明媚とか、のどかな景色には落ち着かないたちなのだ。それに可愛い旋律よりも、都会でトンテンカンテン、パーカッションを鳴らしているような音楽がいいなあ。
とうとう、レッスン前日にしか練習をしなくなり、近頃は、嫌々練習していることに涙さえ出そうになっている。こういう私自身が気持ち悪いのだけれど、それは棚にあげておく。

このままでは、時間がもったいないし、指導してくださる先生にも申し訳なく、先週のレッスンでは途中まで弾いて、
「先生、私はこの人の恋なんて、知ったこっちゃない、ってつい思ってしまうのです。早く終わればいいのにって」と訴えた。
先生は素知らぬ顔で、
「ええ、そんなふうに聞こえますよ」と言われた。

「きれいな曲って、私にはわかりません。それに、この曲にはシュールなところがないじゃないですか」と重ねて嫌悪感を濃厚に漂わせてみたが、
「ええ、ありませんよ。単純に普通に綺麗に弾けばいいのです。
それにね、単純で普通な恋ほど、シュールかもしれませんよ」。

いつも先生は、私の好きな曲を、大人の趣味と呆け防止を兼ねて弾かせてくださっているが、今回ばかりはどうしても、この曲を弾かないといけないみたいだ。
私自身も最初は、たまにはこんな優しげな曲もプラスになるかも、と思っていた。でも、だんだんと身もだえするほど嫌になり、気持ちが凶暴化してくるのはどうしてだろう。

この曲を巡りながら、あれこれ嫌悪感が増して膨らんでくる様子は、まるで綿菓子みたいだ。ただし、綿菓子機の中の種(この曲)からではなく、私の記憶や経験が勝手にもわもわと巻き付いている。この曲自体が不愉快なものに変化して巻き付いてきたわけではない。


相手は何一つ変わっていないのに、思うようにならないということで自分の気持ちが変化する、これは人間関係でも何にでもよくあるパターンだといえるが、ピアノの上達には役立たない観察である。
それに、別に私の好みとか趣味とかどうでもよくて、一生この手の曲は嫌だ、と私が叫んでいても、誰も知ったことではない。それは十分よくわかっているのだけれど。


ちょっと哲学的なことを考えてみたが駄目だった。スピリチュアル方面でよく聞く、「私をなくす」とか「自我を薄める」とかいうやつが必要なのだろうか。歌なら何でも歌っちゃうプロの歌手魂を見習うべきなのだろうか。

こうして昨日も、レッスン前日で嫌悪感ばかりが募っていたのだが、とりあえず「知ったこっちゃない」と弾くことにした。いつも通り。
そのとき、自分にどういう変化が突然訪れたのかわからない。でも、これまでの葛藤がほとんど無くなっていた。相変わらず、この曲は好きでもないし、私が何かを悟って聖人になったわけでもないのに。


綿菓子がしぼんだだけのかもしれない。長い間綿菓子を食べていないけれど、しぼむと棒に張り付いて、べたっとしていたかな。

好き嫌いというのは、何でも一括りには言えないもので、牧歌的な曲が苦手と書いたが、ベートーベンのピアノソナタ「田園」(op.28)の2楽章と3楽章を練習したことがある。ソコロフが弾いているのを聞いて、気に入ったのだが、もう全体的にどんな曲か忘れてしまった。2楽章の最初、左手のスタッカート部分だけは好きで覚えている。


Grigory Sokolov-Beethoven Sonata op.28/Ⅱ(YouTube別ウィンドウで開きます)


上の動画の関連動画で出てくる、ラモーのLes Sauvages(野蛮人)も練習した。これは短くて好き。どなたの演奏がいいのか分からないけれど、ソコロフで。そういえばこの間、先生にラモーを弾かせてくださいとお願いしたけれど、駄目だった。


Rameau
Les Sauvages








2012年2月29日水曜日

つんのめる2月の終わり

普通の年は2月が、28日しかない。月末は慌ただしいものだと分かっているものの、他の月で25日くらいまでは、もう1週間あると余裕があるのに、2月はその調子でいって、二日も三日も足りないと不意打ちをくらってしまうことがある。


これとよく似た感じというと、私の進歩しないピアノの弾き方がそうかもしれない。レッスンで、先生からいつも、小節の最後の音符の長さが短いと指摘される。
「音楽がどんどん前倒しになって、つんのめってますよ。慌てずに十分時間を取って次の音を準備してください」と何度も注意してくださるが、2月の終わりも何だかそんな感じがする。何も片付かないまま、3月になる。
閏年の今年は、1日おまけをもらったようだ。でも、のんびりと構えていると、音価が付点分伸びたようなもので、これもまた「伸ばしすぎ、(気持ちが)休んでますよ」と注意されるのと同じかもしれない。前倒しも駄目だし、先延ばしも駄目。今、必要な音を弾くのは難しい。


そんな2月の終わりの今日は、お遣い物の焼き菓子を買いにケーキ店へ寄った。清潔感あふれる店で、ショーケースの中の小さなケーキが、どれもくっきりと美しい。音楽で喩えると音の粒が揃って立っている、となるのだろうか。
さて、そのお店の焼き菓子なのだが、実は自分ではあまり食べたことがない。このあたりはいい加減で申し訳ないが、ギフトの焼き菓子については、どこも美味しいだろうし、まずは用途が優先であっちのお店、こっちのお店と変える場合がある。みんなで分けやすいものがあるお店、街中でいつでも買える店よりは地元のお店、気の張らない方へのお店など。でも、私はお店の情報には疎いのと、今日行ったお店の佇まいと店内の清潔感が好ましくて、そちらに寄ることが多い。


店員さんがリボンをかけながら、賞味期限の確認を聞いてきたのをきっかけに、つい前々から気になっていたことを尋ねてみた。製造日のことである。正直、お店の人を少し気を悪くさせたと思うが、売っている焼き菓子はすべてその日に作ったものです、と明るくきっぱりと答えてくれた。
私はそれを聞くと、安心して差し上げられるとほっとした。焼いてから数日経って、味が落ちたものは嫌だなと思っていた。日本のパティシエの水準は高いだろうけれど、賞味期限の問題はあると思う。
帰りがけに、お店の方が笑顔で、これはお早めにどうぞと小さなチョコをくださった。


その食べ頃のことなのだが、簡単な焼き菓子なら、自分でも作ることもあり、レシピには食べ頃についても書いているが、洋菓子店で買うときも気にするようになったのは、「フランス菓子塾 ケーキの寺子屋」さんのHPで<焼き菓子の食べ頃>を読んで以来のことである。お菓子によって寿命は違うけれど、寿命が切れたお菓子は味がぼやけて落ちる、と書かれていた。
フィナンシェやマドレーヌなどの焼きたての味と48時間後の美味しさの違いも書かれていた。仰るとおり、自分で焼いたときに出来たてを食べてみると卵の香りが立つので失敗したかなと思うのだが、外側がカリッとして美味しいし、食べ頃の時間帯になってくるとしっとりと馴染んできて美味しい。


「ケーキの寺子屋」さんは、同じタイトルの本があるらしいが、その著者とは別の方。今日、久しぶりに拝見したら、ビスキュイについての記事があった。要約させてもらうと、ビスキュイは一般的に卵黄と卵白の別立て式で作ると言われている。だが、ビスキュイとはスポンジケーキの総称であって製法は二種ある。
ジェノワーズ(暑いジェノバのジェノバ風ー温かい製法、共立て式のホットスポンジ)
ヴィエノワーズ(寒いウィーンのウィーン風ー冷たい製法、別立て式)。
だそうだ。


ご存知の方には何ということはない話かもしれないのだけど、ちょうど、ジェノバで生まれ育ったファブリツィオ・デ・アンドレの歌詞を調べていたところだったので、私はこの小さな巡り合わせが嬉しかった。昨年、11月にジェノバでは洪水が起きて、惨状が日本にも伝えられたが、日本もイタリアも早く暖かくなればいいのに、と思う。暑く、暑く。アイスクリームが溶けるほどに。暑くなればなったで、冬が恋しくなるけど。


明日から、3月。2月末のせわしさはどこへやら、どーんと3月は現れてくる。




デミタスカップより
少し大きいくらいのケーキです